宗教体験

水月を感じて 昇降をうる

                      法然『選択集』

 

 水は昇らずして月を映し、月は(くだ)らずして水に映る。

満天の星空にかがやく月と、静寂な池の水面に映る月。

この光景から宗教体験の内実を、法然は問う。

 月は清く照らす仏の心、池の水は人間の濁りの心を。

真理の月が人間の意識の水に映る(気づくこと)。

そのかぎり夜空の月と、池水の月とは同一性にある。

 だが、そこで池の水と、映る月との異質性を忘れて、

映る月の美しさに見()れ、思わずこの手に(すく)いあげれば、

月は消えて濁水のみ。

水面に月が映ることは、水が月になることではない。

水のままに月を映す。否、水ゆえに月が映る。

 宗教は体験である。だが体験主義ではない。

(かえ)って体験により自らの闇を問い続けていく歩みを賜っていく。

「宗教は怖い」は、この一点の欠落にある。

前住職

2004年10月17日 

 

                     

 

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