どんな出来事にも、どんな問題に出会っても、「真実が明らかになる」ということ。それは「気づき、目覚め、出遇い」をいただくご縁である!ということです。
本来的世界に気づく(阿弥陀さん出遇う)ご縁です。
それは、そのまま自己が明らかになるということです。
自分の立ち位置、どこに立ってものを見たり、聞いたり、考えたりしているのか?
が明らかになるということです。
我々は時折、反省したり、正しい、いい人に成ろうとしたり、仏教を学んで、自分が真実に近づこうとしたりします。
大切なことです。
しかし
それは、どこまでも、自己の正当性、善人性(自己保身)を目指すという方向です。
私が、本当に真実になれるのでしょうか?
仏教を学ぶと言っても、仏法をこちらに引き寄せて、仏法の教えの真実を「わが真実」として、立てようとしてしまうのではないだろうか?
自分が真実(正義)になろうという発想かあるからだと思います。
「虚偽」歪み(迷い)を知らせる「教え」に「真実」があるのであって、「私」が「真実」になるのではないと思われます。
厳しいことなのです。
我々の仏法の聞き方は、聞いている「私」をなによりも信じています。聞いた「私」を当てにしています。阿弥陀さんを、仏法を、信じているわけではありません。聞いた「私」を何よりも頼りにし、信用して疑いません。
その全体が自己関心、自己正当化です。
そこから、自己保身・自己主張・自己拡大という生き方になっています。
(他者不在)
だから、優越感と劣等感を行き来します。
仏法を聞き学ぶとは、どうも、絶対に「たすからない身」、我が迷いを、教え知らされていくということなのです。
「そらごと、たわごと、まことあることなき」この「身」、この「世」を、はっきりさせられることです。
「流転の歴史」・「流転の群生」-「罪業」を知らされていくことです。(機の深信)
念仏の救いは「たすからない自己」、自己の無明に目覚めること、当てにならない自己への「確信」です。
その迷いの私、「絶対救われない」という頷きが、「驚きと傷み」を内包し、同時に「すでにして悲願有ます」という感動(意欲)と、その愛の深さ(「念仏申しなさい」という教えとして用意されている仏の大慈悲心)を知らされます。
どんな問題も、真実を知らされていく、私を知らされていく、大切なご縁なのです。