自由の敵はわがまま

自由の敵はわがまま

                     『毎田周一全集』

 

道徳と宗教の命題において、このまえ(2005・7・3日付)

提起した「わがままと自由の(きわ)」について、いま一言しるしたい。

同じく「自由」と訳されていても英語の場合、

一つはリバティー、ある抑圧の状態からの解放を意味し、

いま一つはフリーダム、他者に自分の心を開き、

自分を(ささ)げるための自由を意味する。

前者は「・・・からの自由」であるのに対し、

後者は「・・・への自由」とわれる。

 たしかに自由は束縛からの解放という一面を持ち、

同時にそれが(かえ)って積極的に束縛に向かっての

必然の自由という一面を持つ。

それは自由がわがままという「気分」でなく、

人間の「本音(ほんね)」、つまり主体的に生きたい

という衷心(ちゅうしん)の要求にしたがう生きかただ。

それがわたしたち人間が持つ根本的、宗教的課題なのだ。

 2005年7月31日

(前住職)

                      

This entry was posted in 池田勇諦(前住職)の話. Bookmark the permalink.