「ほんに いままで知らなんだ」

 

「教え」に対する私たちの姿勢は、「教え」を分かろうとしていて、仏法を聞いていないのではないでしょうか。仏法は、私に何を願ってくださっているのかを棚上げして、分かるとか、分からぬとか・・・。

分かれば救われるのだろう・・・とか、夢を見ているだけ。

私たちの物差しのレベルでなら、分かっても、分からなくても同じですね。

かつて三重の桑名に、松岡なみ(晴雲寺門徒)という、篤い聞法者がおられ、その明るさは周囲を奮いたたせる徳行の人でした。

私の祖母も、殊のほか親交をえて、家にもよく来てくださっていました。

お内仏の報恩講には必ず来てくださり、あとで大きな声で聞かせてくだっさた告白詩が、今も想い起こされます。

 

一つには  必定地獄と 聞きながら  うぬぼれ心に だまされて

堕ちるわが身と いうことを  ほんにいままで、知らなんだ

 

 

二つには  不定のいのちを もちながら  よもやよもやで 日を送る

今宵も知れぬ いのちとは  ほんにいままで、知らなんだ

 

 

三つには  皆さん 後生は大事やと  ひとには言うて 聞かすれど

わが身の 大事ということを  ほんにいままで、知らなんだ

 

 

四つには  よくよくお慈悲を 聞いてみりゃ  たける弥陀が 手をさげて

まかせてくれよの 仰せとは  ほんにいままで、知らなんだ

 

 

五つには  いつもお礼は いそがしく  浮世ばなしに 気が長い

かかる横着者ということを  ほんにいままで、知らなんだ

 

 

六つには  難かし むつかしと 歎いたが おのれが 勝手にむつかしく

していたものと いうことを ほんにいままで、知らなんだ

 

 

七つには  泣いて笑うて 地獄をつくる

浄土の中の 地獄とは  ほんにいままで、知らなんだ

 

 

八つには  役にも立たぬ 雑行雑修を すてもせず

親さま 泣かせていたことを  ほんにいままで、知らなんだ

 

 

九つには  光明摂取の 網の中

逃げても 逃げれん おひかりとは  ほんにいままで、知らなんだ

 

 

十には  となえる 称名そのままが

親のよび声と いうことを  ほんにいままで、知らなんだ

 

素朴な表現のうちにも、自分の物差しの、他だったことの驚き、懺悔が痛く伝わってきます。

「ほんに いままで知らなんだ!」  そこからすべてが始発します。

 

(『報恩講』パンフレットより抜粋 )

2012/11/28

                           

This entry was posted in 池田勇諦(前住職)の話. Bookmark the permalink.