この度の、池田勇諦西帰に際しまして、ご縁の方々が、北海道から九州まで、韓国からもお参りくださいました。沢山の方が、お悔やみのコメント有り難うございました m(__)m
門徒の役員、教区の方々、教務所員、別院の皆さんにもお手伝いいただき、お勤めすることができました。暑い中、ご協力ありがとうございました。ご参列にあたり多々、ご迷惑おかけしたことはお許しください。
2017年自坊の宗祖御遠忌法要の中、「本堂修復奉告法要」の「表白」に、西恩寺の歴史を語り、その歴史が池田勇諦の歩みそのものでした。
【顧みるに、当山西恩寺は、開基喜受法師、俗名池田喜一の並なみならぬ「仏法ひろまれかし」の志願から創建された聞法の道場であります。そもそも喜一の、そのような願いはその父市松、法名〈諦受〉の篤い聞法心によって育まれたものであり、そのまた感化を受けた市松の妻「いよ」は、病弱の身が強縁となり、聞法に生き甲斐を見いだす人となりました。喜一はそうした両親の念仏により自然に念仏を喜び、その喜びを伝える責任を感ずる生活者となっていきました。
時に大正11年(1922年)、当時は一年の半ば近くは雪に埋もれる加賀の山村(現・石川県小松市瀬領町)から、年間通して労働に從事することができる三重のここ、桑名を有縁の地と選び移住したのでありました。
喜一の聞法相続心は新しいこの地に来って弥増すこととなったのは、当地の桑名別院本統寺における法座に詣でる縁ができたからでした。そのころ老母いよは、桑名別院での聞法を日課としていましたが、視力を失っていたため誰かの手引きが必要でした。それが思いもよらぬ新しい仏縁をひらくことになるとはまことに不可思議であります。それは喜一の五男、勇 のちに西恩寺第二代住職となった私が、数え五歳の春から祖母の手を引いて別院への聞法の日々が始まったのでした。宿縁の然らしむるところであろう。私は祖母の強い感化をうけ、「後生の一大事の解決は、僧侶になるほかなし」との思いに至り、昭和15年9月7日、満6歳(翌年から現行の9歳に)で、桑名組長願寺の衆徒として大谷派僧侶、勇諦の度牒を拝受したことであります。
父喜一の「仏法ひろまれかし」の志願は、私の得度によって、いよいよ熾盛となり、自宅を昭和22年4月に私設「八幡説教場」として開放し法座を開き、遂に有縁の人びとの篤い支援により、昭和24年6月自ら開基住職、代表役員となって宗教法人西恩寺を創立し、昭和32年2月、現在の本堂建立の難業を果たして、3年後の昭和35年8月20日、行年70歳を一期として浄土に還帰したのでありました。
それに先だって、開基喜受は勇諦を第二代住職に就かせ、昭和30年6月真宗大谷派に所属することの承認認可を得て新しく「真宗大谷派西恩寺」として出発することとなったのでありました。
思えばこれまでの紆余曲折の歩みにも、多くの先輩諸師のご慈育と励ましがあったればこそであり、憶念して今も熱いものがこみあげるのを覚えます。】
祖父母のご縁から、この道一つを歩ませていただいた人でありました。
たくさん、ご迷惑もお掛けしたと思います。
永い間、お世話になりまして、有り難うございましたm(__)m
ご縁の方々から、お志ご香儀、もったいないことでありました。
おあげいただいたお志の返礼分を真宗大谷派本山、桑名別院本統寺、同朋大学に納めさせていただきました。本人の願いでありましたので、お許し下さい、すみません。
有り難うございました、
御礼まで。















