中日新聞 〈人生のページ〉 ⑮

 

おお無明よ

                    『全集』

 ゴータマ・シッダールタ(釈迦)のさとりの意味を、先人はこの一語で表現した。

既存のインド固有の民族宗教にも求めるものはなく、

独り菩提樹下に坐したゴータマの内面の葛藤を、

誘惑する悪魔の来襲と守護神・帝釈天との闘いで仏伝は描く。

しかしその守護神もついに悪魔の軍勢の前に逃亡した。どこへ?

意外にも悪魔の大軍の中に。

その瞬間ゴータマは豁然(かつぜん)と証悟した(十二月八日)。

悪魔とは欲望であり、帝釈天とは理性である。

ゴータマを欲望からまもり、向上を意欲する理性。

それが何と欲望と同質ではないか。

人間の至宝とする理性の闇に回帰した、懺悔のさとりを告げるこの一語だ。

もはや理性の無明的傲慢さをゆるせぬ生きかたが、そこに始まった。

現代の病根を射抜いている。

2001年11月18日

 

 

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