中日新聞 〈人生のページ〉 ⑪

 

一声(ひとこえ)の念仏の中で八十億カルパもの永きにわたる

造りし罪が除かれる

   『観無量寿経』

このことばは、「なむあみだぶつ」を称えることによる滅罪をあらわす。だがそれは、決して安易な罪の消滅をいうのではない。もともと消えてなくならぬものが罪だから。

ならば、滅罪とはなにか、罪の覚知である。覚知は罪を悲しむ心であり、罪を問い続けていく心だ。

今年も敗戦の日・8月15日を迎える。過去の歴史を裁くのはやさしい。責任を追及することも不可能ではあるまい。

だがそこに断じて欠落してならぬ一点は、消滅することのない過去の罪過を痛む心だ。なぜなら、二度と過ちをくりかえしてならぬ共生の歩みとなる心だから。人間として、しかも日本国民として。

2001年7月29日

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