愚者(悪人)に目覚める

IMG_20230630_151038真宗仏教において、愚者、悪人、凡夫と言い当てられています。
なんか、暗い感じで、テンション下がりますね。(^_^;)
「愚者」「悪人」と知らされることが、救いなのです。
仏法聴聞において、愚者と気づくと同時に、もう一つ知らされることがあると思うのです。
それは、「他者の存在」です。
愚者、悪人への気づきは、罪業性に気づくことです。それは慚愧感覚、傷み、悲しむ感性を賜ることです。
私は、自己中心的に生きていているということですから、他者がある意味、その私によって、傷つけられたり、利用されたりしていくということになります。
罪業性を持って生きているのが私です。
しかし
ついつい、我々の思考バターンは、そんな罪深い私を阿弥陀さまは、救ってくださる。
有り難い!!
ありがたい!!
と流れていきます。
そこに見落としがちなのが、自らの罪業性と、他者の存在ということです。
罪業性を知るということ、それは他者を発見するということになります。
それがつい、自己関心で終わってしまいがちです。罪深い私を阿弥陀さまに救ってもらう。と他者が消えていくことがあるのです。
それを自己完結型信仰と教えられました。

しかし、ある意味、誰もが罪業感覚を忘れ果てて、ケロッとしていることがあります。
罪業の感覚(慚愧)が呼び覚まされることが、他者に気づき、発見するときです。
罪業の感覚を取り戻すことが、共にある他者を見出す時なのです。
本来の世界に回帰する時です。
それが救いなのです。
きれい、さっぱりと阿弥陀さんに救われて、罪などが、帳消しになるわけではないですよね。
罪業感覚を生活の中で取り戻す時、聞法において知らされる時が救いなのです。
共に生きて在ることを回復することが救いです。そこから共に在ることを壊している私を、問題と対峙していく生き方が与えられてきます。
どうぞ、
おたいせつに
願いますm(__)m

IMG_20230630_151038

This entry was posted in 住職の思いつき. Bookmark the permalink.