『名古屋別院リーフレット』より(一)


葬儀を縁として

より豊かに、より快適に、より便利にと、とどまるところを知らぬ現代の肥大化した欲望に流されるわたしたちは、却って生活にゆとりを失い、自己主張ばかりが目立ち、人間関係が煩わしくなっていないでしょうか。
そうしたわたしたちの生き方は、いまや到るところにその影を落し、厳粛な「死」までが病院や施設の中に隠蔽され、葬儀さえ最近は直送などという言葉も現れて行わない動きが見え始めているありさまです。
ここであらためてわたしたちに問われることは、「いのち」の尊厳さにちがいありません。人としてこの世に生まれ生きるには、いかに多くの人や物との関係があたえられて可能なことであることか。その意味で、人の世の大きな恵みへの謙虚さこそは、残された者の姿勢であり、人の道でありましょう。しかもそこに立つことによってのみ、悲しみをとおして仏の正法に対座する縁があたえられるのです。
そのことは、先だてる人の死が自分を見る鏡として、向きあっていく生活が始まることと言えましょう。その人がどのような生きざま・死にざまであろうとも、それはそのまま自分にとって、生きることの意味を問わしめる善知識(人生の教師)だからです。
いまや高齢化社会、しかも世界一の長寿国の日本。「いのち」が常に話題になりながらも、「どれだけ生きるか」の量的いのちにばかり関心して、「どんないのちを生きるのか」の質的いのちが自問されなければ、量的な長寿は決して単純には喜べないでしょう。そうしたわたしたちに、「幸せの条件と幸せそのものは、異質である」と、報らせるいのちの真実の声、それがこの口に表れる「なむあみだぶつ」でした。
ここに自分にとって「葬儀」は、「死」を師として「生」を生きる!宣誓式であり、先だてる人生の先輩(諸仏)への最後のご奉仕として、厳重に執り行う儀式です。
さあ、真実の教えに遇いましょう。(池田勇諦)

 (名古屋別院教化事業部に許可を得て掲載しています)

 

 

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