「自分史」を語る

仏教盛年会(2015/03/28

「自分史を語る」

私は、西恩寺の総代をさせて頂いています岩田恭司郎と申します。今回「問題提起」ということで、以前から住職に頼まれておりました。この一ヶ月、何を語ればいいのか悩んでいました。世間話と思って聞いて頂きましたら気が楽です。

まず自己紹介になりますが、私3人兄弟の次男として桑名で生まれました。兄、妹という形です。父は自営業で建築板金業という仕事をしておりました。一般的に長男の兄が後を継ぐはずですが、なぜか小さい時、小学校低学年から両親に「お前が後を継ぐのや」と。今で言うマインドコントロールされていたんだと思います。自然に高校は工業高校に、卒業後は回りの友達なんかは進学したり、コンビナート関係に就職したりで、うらやましく感じました。その旨、母に相談しましたが、バッサリ否定でした。

 知り合いの紹介で、神戸の方で板金の見習いという形で4年間、預かっていただきました。昔で言う丁稚奉公です。そこでは住み込みで、親方夫婦、子ども三人の中での生活でした。「気を使わなくていいよ」と言われると余計に気を使いました。さすが18歳です。一週間で神経性胃炎になり、一週間動けませんでした。神経からくる胃炎で、半端ではない状態でした。今思うといい経験でした。

 長く思えた4年間も過ぎ、桑名に戻り家業を継いでいるわけですが、当時考えた事は、私の回りには友達、遊び相手がいないということでした。高校は三年間四日市、あと神戸で4年間。地元桑名では知り合いが誰一人いないのに気づきました。仕事ばかりに追われていた自分を見つめ直しました。このままでは自分は、根暗な人間になってしまう。何かサークル的なグループに参加しようと考えました。最初は知らない世界に飛び込むのは、ためらいもありましたが、勇気をもって積極的に参加いたしました。そのうち徐々に仲間もでき知り合いもでき、仕事もだんだんと増え、父親より私の方が多くなっていきました。お酒も嫌いではありませんでしたので、そちらも盛んになっていたんでしょうね。

 そんな中、昭和60年、27歳の時に結婚という運びとなりました。当時、父はもちろん西恩寺の総代でありました。父とは仕事面でも言い合いというか、私から一方的な批判でした。父親は、お寺優先で仕事が二番の人でした。いまでも思い出しますが、お彼岸のときに、大事な仕事があり、朝から段取りをして、忙しくしているのに、父は当然のように、「今日はお彼岸やから、お寺に参りに行くのや」、と知らん顔です。急遽、人をお願いして応援を頼んだ記憶があります。そんな父が「結婚式はお寺の本堂でする」と、言い出すからびっくり。「えーそんなんいやだ。何で、めでたい席やのに、葬式するところで、数珠もって焼香して」というのが寺のイメージでしたから猛反対でした。しかし結局、両親の強い願いで、(半ば強制的に)西恩寺本堂で仏前結婚式をあげることになりました。その時のことは余りよく覚えていません。

 時が流れ子どもも三人授かり、まだ子どもたちも幼いある日の出来事。母親がお寺の報恩講の2、3日後に、少し身体がしんどいと言って、2日ほど何も食べず寝ておりました。もともと病院嫌いだったので、こちらから病院に行くようにやかましく言って、ようやく母も起きてきて、用意をしてトイレに入いったままなかなか出てこないので、父が呼びに行ったら便座にすわったまま眠るように亡くなっておりました。私は仕事に出て、いませんでしたが、救急車で運ばれましたが、「すでに遅し」でした。電話で知らされ、急いで駆けつけましたが、そのとき一緒にいたおばの言葉なんですが、「あんなにお寺の事に一生懸命で、家の事もほったらかしやのに、なんでお寺さんがいのちを救ってくれないのや、なんでこんなに早く死んでしまうのか。肝心な時にお寺は、役にたたない、動いてくれないのや」と声を荒げて言っていたのが印象的でした。66歳で少し早い死ではありましたが、苦しまず楽な死だったかなと思います。

あとひとつ気になっておった事ですが、その年に家のリフォームをしておりました。間取り的に風呂とトイレの位置を検討した結果、トイレの位置がいわゆる、鬼門に当たる北東の位置でした。回りから大丈夫かなどと聞かれた事もありましたが、父親は全く気にしていません。私が一番気になっておったみたいでした。その年の暮にその場所で母が亡くなった訳ですから、場所を聞いた時は、寒気が走りました。気になっていた事が、現実に起こると誰でもあわてますよね。(しかし、真宗の教えでは、方角などを気にすることは、迷信であると聞いていますが・・・。)

 母の死をきっかけで、私もお寺に通うようになりましたか。そんな中、住職継承式と同時に長く総代していました父に代わり、総代という役がまいりました。40歳中頃であったと思います。私みたいな者が務まるのか、お寺のこと、仏教のことも、何も知らないので不安だらけでしたが、皆様の指導のおかげで今に至ります。

 そんな中50歳になる年8月11日。私としては「8.11」と呼んでいますが、仕事中、屋根工事の最中突然、頭の中心部にビーンと言う音が走りました。痛くも何もなかったのですが本能的におかしいと思い、すかさずはしごで降りる体制を取りました。降りる途中で身体の右半身の感覚がすべて奪われました。ああ、これで落ちれば終わりだなと思いながら必死で左半身のみで降りたと思います。どう降りたのかは記憶にないですが、救急車で運ばれる途中も救急隊の方も熱中症だから水分とって点滴をうてばよくなりますとの事でしたが、自分の身体は一番本人がわかるといいますが、その通りCTの結果、脳出血とわかり、再び救急車で対応できる病院まで運ばれた次第です。その後入院、リハビリ含め約5ヶ月の入院生活でした。今思うと住職には何度、病院に来ていただいた事でしょう。その後6年も過ぎましたが、外観ではわかりませんが、ひどい後遺症が残りました。日によって変りますが、ひどい時は起きられない程「しびれ」がおそってきます。その結果、半身はほぼ感覚が麻痺します。あまりそんな日が続きますと、うつ病になりそうな感じもあります。

 以前に感話でもお話した事ありますが、仏法でよく出てまいります「救い」と言う意味について考えてしまいます。母の死もそうですが、自分が健康な時は思った事はありませんでしたが、いざ病んでしまうと深く考えてしまいます。元気な頃はそれがあたりまえなんです。ひとつそのラインが狂うとあわてて何かにすがりたくなるのが現実なのでしょう。仏法を聞いておれば「助かる」と言う意味がなかなかうまく自分で理解出来てないように思います。

 前住職の法話でもありましたが「病気が治ったり、命が助かる事は、状況の変化である。それを我々は求める。それが変化することが救いと考える。奇跡を求めてしまう。真宗の教えは、奇跡ではなく、いま、ここの現実と向き合うこと。生き方、価値観、立場の転換において救われると。-その現実を生きる主体性の獲得において、生きることを、新たにはじめていける。そのことを救いという」とのお話で、いまいち、はっきり致しませんが、今後もまた「救い」という意味も課題となっていきます。現実を受け入れ仲良くこの病気、しびれと付き合って生きたいと考えております。

 最後になりますが今年、2015年元旦に、父が亡くなりました。二年ほど前から老人施設に入り、もう寝たきりの生活でした。どこも悪いところはありませんでしたが足が悪いと言うだけで、私もそんな状態なので介護も出来なく仕事もありますので、施設との選択になりました。寝たきりになりますと、だんだんと弱ってもまいります。年末施設から連絡いただいて、二日後に亡くなりました。83歳老衰で眠るようでした。よく考えますと母も同様父もこれも救いがあったんだなあとも思いました。

これで終わります。ありがとうございました。

(12月10日 母、澄子さんの命日に記載)

 

This entry was posted in 門徒の声. Bookmark the permalink.