「聴聞のこころ」

(知人住職「facebook」より転写)

 

 「耳できくことを『聴』といい 心身を挙げてきくを『聞』という。そして他力の信心は『聞即信』聴にではなく聞についてあります。私のいのち全体に聞こえてくださるのが「南無阿弥陀仏」です」(豊島学由)

 

浄土真宗では「聴聞」をとても大切にします。金子大栄先生は聴聞についてこう仰いました。

①「聴なくして聞なし」

  「ああ今日はしんどいからやめとこっかなあ」なんてことがよくあります。自分の心に任せたらまず参れません。御法座に参るには気合がいります(笑)でもそれが聴ということです。

 

 また自分や家族が病気事故にあったら行けません。そう思うと今聴聞に行けるのは(これは聴聞だけではありませんが)おかげさまです。

 

②「されど聴の延長線上に聞があるのではない」

  「何回行ったから」「何年も聞いたから」それは他力の信にあってはまったく関係ありません。阿弥陀さまの「ただ今救う」南無阿弥陀仏を聞いてただ今助かるのが浄土真宗です。

 

③「聞は聴を否定する領域である」

  「よく聴いたら」「これだけ聴いたら」と思って聴いてきたけれど 私が思うより阿弥陀さまの方が先でした。すでに助けてあることをお聞かせいただくばかりです。

 

 「こう思えたら」「ああなれば」は一切要りません。今この私のままで全部認めてくださっている本当の言葉を今聞かせていただく。それが聴聞です。

 

 

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