修正会 総代感話

(2013年1月1日 感話)

月日の経つのは早いもので今回、感話をいたしますが、3回目となります。今振りかえますと、お寺にご縁いただきまして早くも15年を迎えます。

15年前、母の急死の縁で私がお寺に出向くようになりました。父親はいまだ健在でおりますが、それ以上、元気な母の死に対して、何がおこったのか、頭の中が真っ白になり、悲しみより、どうすればいいのか慌てました。救急車で病院に運ばれた母は、すでに息はありませんでした。

葬儀の手配、親戚との連絡など、形式事が先走りましたが、それでもなんとか、無事に葬儀も終わりまして、今考えると、懐かしく思うことです。

今回の、報恩講におきまして、毎年ですが、母の12月の命日と重なりまして、強く思うことであります。

たまたま住職の長男、度くんとの会話ですが、「もう、度いくつになったか?」との問いに、「もうすぐ15歳になるよ」、との返事でした。そうなんです、度が生まれた翌日が、母の死でもありました。今後も度の年に基づき、母のなくなった、年月も思い出せそうな気がします。いまだ母が健在でおりましたら、今私はこの場にはいないと、つくづく思うことであります。

さて今、私の現状ですが5年前に、脳出血という病気に会いました。前ぶれもなく突然の事でした。現在、外観はわかりませんが、かなりの後遺症が残りました。

自分で自立は出来ますが、かなりつらい毎日が続きます。周りをみると、もっとつらい方がたくさんおられます。比べることはおかしいですが、まだ私はいい状況であったとも思います。

普段の生活に戻ると、なんとか一日仕事もあるし、用事もあるし、時の過ぎ行くままに、時間が経っているように思います。若い30代くらいに思う、意欲は到底なくなりました。

自分が出来ることで、精一杯という感じです。

何度も考えた事ですが、頼る人はありません。自分しかないと思います。となるとつらい事をのがれるために、楽になる方法を選ぶ人がいるという、現状が少し分かるようにも思います。

「仏法を聞けば助かる」、ふと聴聞の中で思う事ですが、「助かる」と言う事が、まだピンとこないのですが、どういうことなのでしょうか。「命が助かる」、「病が助かる」、ではないのですね。自分がそのことに遭遇したため、どうしても、その意味を知りたく思います。

母の死の時、振りかえって思う事ですが、親戚が言ったことばに、「なぜ、あれだけお寺に一生懸命に仕えてきた人間が、あんなに軽く死ぬのや」と、「お寺にあれだけいっても救ってくれないのか」と、今でもその言葉が忘れられません。

「仏法での救い」の意味が今後、私の課題となります。

今後の生き方とか、どういう考えかと、問われますと病気以来、すごく消極的になりますが、現実を受け入れて、これからの生活を考えていきたいと思います。

(岩田恭司郎)

 

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