「悩む」は大事

 

私自身、大学で仏教を学び始めてから26,7年経ちますが、最近つくづく思うことがあります。

それは「悩む」ということはとても大事なことだということです。「お前は一体何を学んできたのか」と自問自答するとき「悩むことは本当に大事なことであり、そのこと、一つハッキリした」と言っても言い過ぎではないと思っています。

今から15年ほど前のことですが、あるお家にご法事にいきました。17回忌のご法事でした。亡くなられたのは、そのお家の子どもさんで、当時、高校生だった息子さんが事故で亡くなられました。ご法事の後に、お母さんとお話をしたのですが、事故のことや、今の気持ちを語ってくださる中で、地元の新聞に連載されていた「一期一会」というコラムを、たまたま目にした話をしてくださいました。執筆者は私どもと同じ宗派である真宗大谷派のM先生だったのですが、 「読み終えたとたんに熱いものがこみ上げて、涙が出て止まらなかった」というのです。それからそのお母さんはそのコラムをスクラップにして、大事に、大事にしているとのことでした。

私はその姿を見て教えられたのですが、もし子どもさんを亡くすということがなければ、きっとM先生の言葉に出遇うということもなかったのではないかと・・・・。
つまり十数年間、現実が引き受けられなかった年月が言葉に遇わせたのでないかと感じたのです。
たとえ同じ日に同じ物を読んだとしても、子どもさんを亡くすということがなければ決して出遇えなかったのではないか。お母さんの深い悲しみが言葉に遇わせたのだと思わせられたことです。

その後、お母さんはご縁のあったお寺で「真宗」のお話を聴き続けられたのではないでしょうか。25年のご法事にお参りをさせていただいた時には 「息子の死は南無阿弥陀仏に遇うためでした」と涙ながらに言っておられました。
今も大変印象に残っているのですが、その言葉は決して息子さんの死が悲しくなくなったというのではないのです。 二十数年、悩み苦しんできたことが「真実のいのちを訪ねる歩みであった」「大切なことを知るご縁であった」というのでしょう。言い換えれば息子さんをご縁に自分が本当に求めていたもの、探していたものに、気づかされたのではないかと思うのです。そのことが「息子の死は南無阿弥陀仏に遇うためでした」という言葉となったのです。

お母さんを見ていると、問題に遇わない方がいいことは言うまでもありませんが、確かに問題によって歩まされ、励まされている事実を思うのです。
それまで私は問題を解決して助かると思っていました。不安なら取り除かれて救われると思っていました。
しかしそうではなく、問題こそが私自身を目醒ます、唯一の手がかりであることを思わされます。つまり問題があるがゆえに、この「私」を立ち止まらせ、揺り動かし、「お前の生き方はこれでいいのか」と問われるのです。
そしてお母さんのように真実を求め、探す力となるのです。その歩みが、季節が来れば花が開くように、自然と真実の言葉に遇わしていただくのではないでしょうか。

思えば私自身コンプレックスから現実の自分がなかなか引き受けられず今日まできました。今もコンプレックスは消えることなくありますが、しかしそれが私自身なのです。その私だから多くの言葉や人との出遇いを頂戴してきたように思います。これからもいろんなことに出会っていくのでしょうが、このお母さんのように問題を縁に道を尋ねていきたいと思っています。

(能邨 勇樹)

(勝光寺ホームページ」より、[2009/3/05] 許可を得て掲載します。 住職)

 

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