続・お浄土ヤーイ!!

 

折角の西恩寺HP。もっと現役世代がバリバリ発信してくれるといいと期待しているのですが、どうも消極的で、と今朝も住職の嘆きにほだされて、取りあえず続論を連ねる羽目になりました。正直に言えば、皆さん引っ込んでいないで裏方同士のリレー通信をノルマにして連載化するとか、遠近問わずインターネットに強い人材にお願いするとか、あるいは寺の哀歓を見聞きしている坊守、前坊守などにも発信させるとか、活性化のためのいろんなアイディアを住職以下のスタッフに積極的に出し合ってもらいたいのですが。

 

OOOO

 

さて、死について考えようという本が近頃たくさん出ていますね。大震災後の絆という言葉と同じように、ブームみたいに思われますが、ブームなら一時的現象でしょうからいずれ下火になるでしょうか。それはともかく、死について語ることはだれでもできるんですね。しかし考えてみると、大概は自分の死ではなく、人の死、一般論としての人間の死、を語っているんですね。他人の死は、葬儀など目にみえます。いくらか気楽に、と言っては失礼だけれど話せるのです。しかし、自分の死は見えない。だから己の死は語れない、ということでしょうか。

 

 しかし「死」は人生のもっとも大きなテーマです。そして突き詰めていけば、人生最大のテーマは「自分の死」なんですね。自分が死ぬということ。これ以上のテーマは人生にないのです。それなのに大方の人は、これを語れない。突き詰めるのを避けて、あやふやなまま生きようとしています。怖いからでしょうか。私もそうです。

 

 此岸に生きる私たちは、煩悩に追い回され、シャバのモノサシで生きています。だから本当の意味で死と向き合えない生き方をしているのでしょう。そんな生き方じゃダメ、と言われ、彼岸の仏の智慧を頂いて、ひらりとホトケの手のひらに乗り移りなさいといわれているのですが、これが簡単ではない。だから、いつも同じところをぐるぐる回っているんですね。

 

 で、それではと、お寺に足を向けるのです。時に分かったつもりになるときがあっても、しかし寺を出るとどこかへ消えてしまっています。総じて、寺で聴く話は普通に生活してしている人間には難しいのですね。例えば、宗教性、哲学性、などと「性」が頻発されたり、本然的、教団的と「的」が次々耳に入ってくると、もうだめです、という人もいるのです。理解がぼやけてしまうのです。こんな言葉の何気ない飛び交い方が、もう一つ、大衆門信徒が土足でづかづかと教団に上がりこめない一因になっているんではないのか、という論者もいます。確かに、多くは難しいことを聴きに来ているのではありません。ムリは百も承知で、難しいことを易しく分かりやすく聴きたいのです。それがなかなか叶えられないじれったさに、少なからぬ人がウズウズしています。「難しいことを平易に説き話す」ことは大変難しいことだと思われます。(言えば、難しいことを難しく語ったり、易しいことを難しく話すのは易しいこと、なのではないでしょうか)

 

それはさておき、死を、自分の死を真剣に見つめることを、私たちは避けてはならないのですね。真宗信徒であるなら、教祖親鸞に学ぶに如くはない。親鸞さんは生涯を求道の人として生き抜いたわけですが、死をみつめた真実の言葉として「念仏」を人々に説かれました。念仏によって繰り広げられる世界こそ安寧の世界、と喝破されるのですね。これがストンと胸に落ちれば、私も死を直視し、少しは「自分の死」を語れるのではないのか。

 

では念仏、というけれど、お互い本当にわかって得心して称えているのだろうか。頭で判っているだけではないのだろうか。頭でっかちのこの身がクセモノです。安易に処方されたクスリを飲むように、ただのんでいるのではないのでしょうか。

 

なんとか念仏の真の中身に切り込まなくてはならない。死と念仏と。わが心の安らぎどころを求めて勉強を続けたいのです。その意味で開祖聖人の歩まれた90年の軌跡をなぞることから始めている私です。

池田義男   (2012/6/6   投稿)

 

 

 

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