聞法は、自分の物差しで聞くことでなく

先輩から「日めくり法語カレンダー」の言葉についての

「味わい」をメールしてくださいました。(住職)

20180410_083458「聞法は自分の物差しで聞くことでなく、自分の物差しを聞くことだ」という法語は、座談会でも話題になり、どういうことなのか質問も出ました。

あらためて自分で思うと、自分は絶対だという思いがある。あの先生の話はおもしろい、この先生の話はつまらない、と判断している自分がいる。しかし、隣の人は、必ずしも自分と同じ受け取りをしているとは限らない。また、自分は少しも心が動かないのに、隣の人が、ひどく感動しているということもある。

そんな時、知識があるか、ないかの違いだといって、感動している人を軽蔑したりすることもあった。「一文不通のともがらの」とか、「経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のこと」という異義が、そのまま自身に当てはまっているとは、つゆほども思ったことがない。

それでいて、『歎異抄』を読んでいたつもりになっていたのでした。 「物差しを聞く」ということは、他者の意見、感想を聞くということではないのか。そして、どうして、自分には感じることができなかったことを、この人は感動したのか。そのことを聞くことによって、自分を知るということになっていくのだと思う。自分の意見、感覚、価値観は、自分のこれまでの経験、生い立ちから、どういう環境で、育ってきたのかの「表れ」なのである。さらに言えば、この国の歴史、言葉、価値観と無関係ではなく、深く影響されているに違いありません。 「自分の物差しを聞く」とは、自分を知るということです。 そんなことを思いました。

以上

(連続講座の中で、講師が講義で、この法語を紹介し、その後、座談会もあったようです。その講義・座談会に出ていた先輩が改めて知らされたことをメールくださいました)  

住職

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