「愚者になりて・・」【FB記事】

このホームページには「交流の広場」というコーナーを

設けています。意見交換などができればと思っていますが

あまり反応はありません。(^^;)

私は「FB」に参加しています。そこでご縁のある方々の

投稿を読んでいます。その中でのメッセージを転写していきます。

ご本人には許可を得ています。

「お問い合わせ」からご意見等お寄せ下さい。(住職)

↓  ↓  ↓  ↓

「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」(法然上人)

 仏教を勉強して暗記するものだと思っている人がおられます。「だから仏教は難しい」と。仏教が難しいのは 勉強が難しいからではなく 自身と向き合わざるをえないからだといえます。どれだけ仏教の知識が深くても 自身に向き合うことがなければ それはただの知識でしかありません。知識だけなら いまやネットの方が上手でしょう。

 「煩悩が善い悪い」「自分は凡夫だからどうだ」「あなたの仏法は違う」「私のもとに伝えられている仏法こそが正しい」などなど・・・他を貶す批判するということは自信がない証拠です。そして仏法を いや自分を他に認めさせるために利用しているに過ぎません。

 「愚者」というのは 学校の成績が悪いとか社会でうだつが上がらないといったことではありません。また自分を卑下して言うものでもありません。仏さまと向き合って自身を知らされ そこから生じてくる痛み(自覚)の言葉です。そうであるなら「私は愚者だから助かるんだ」とはとてもいえないでしょう。「愚者になりて往生す」がいかに難しいことか。自分が一番エライと思っているのですから。丁重に扱われて当たり前と思っている私なのですから。

 仏法を自分を安心させるため 小さな自分を他に認めさせるために利用してはいけません。自分の枠がわかる 明らかになる 心の奥底で泣き叫んでいるもう一人の私に光が当たる。仏さまの教えを聞かせていただくということは自分自身を教えていただくということです。

 本当は自分のためなのに「あなたのため」「家族のため」「社会のため」ということをよく聞きます。利己主義なのに「自分は利己主義ではない」と自分に嘘をついているのです。自身の中身を認めたくない 他を批判したくなった時には 自分が押し込めているものは何だろうかと見つめてみることです。自分が認めたくないもの 抑圧しているものに気づかされていく道が仏教にはあります。

This entry was posted in 交流の広場. Bookmark the permalink.