勝光寺【親鸞聖人750回報恩会】「表白」

DCIM0441DCIM0446DCIM0445表白(ひょうびゃく)

 謹んで弥陀・釈迦二尊、並びに三世十方の諸仏に申す。

本日ここに、有縁の同朋あい集い、恭しく尊前を荘厳し、宣心院殿御参修のもと、勝光寺宗祖親鸞聖人七五〇回報恩会法要を厳修したてまつる。

それ、宗祖親鸞聖人は平安鎌倉という時代の動乱期において、身命を賭して願生浄土の仏道を開顕せられた。すなわち法然上人に出遇い、大無量寿経を典拠とし、われら迷妄の凡愚を開く道は、ただ本願念仏の一道に立つほかはないことを示されたのである。思うに聖人九十年のご生涯における転機を尋ぬれば、幼少より過ごされた修行の場、比叡山との決別であろう。

比叡の山を下りられることは、そのまま生活の糧を失うことであり、また異端視されていた法然上人の吉水教団に身を置くことは、奇異の目で晒されるだけでなく、この身も危ぶまれることであったろう。

しかしながら聖人は、身命を顧みず人間が真に救われる道を求めて、「降るにも照るにも、いかなる大事にも、まいら」れ、本願念仏に生きることを決断されたのである。

「建仁辛の酉の暦雑行を棄てて本願に帰す」

聖人二十九歳、長い間暗闇の中からようやく光を見出し、法難そして田舎の人々との出遇いを通して、本願念仏こそ大乗至極であることを確信されたのである。そして聖人はその世界を『教行信証』に顕し、終生、「和讃」や「手紙」を通して有縁の人々や遠く未来世のわれら衆生にまで伝えんとされ、生涯を仏道に捧げられたのである。

もしあの時聖人が諸々の恐れをなして比叡の山にとどまられたとしたら・・・真実に出遇うことも、仏道に出遇うこともなく、山で悶々と日々を過ごしておられたにちがいない。

善導大師「二河の譬」の、行者が諸々の恐れをなして「三定死」となり、決断して道を歩む場面を想起する。 

『自ら思念すらく、「我今回らばまた死せん、住まらばまた 死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん。すでにこの道あり。必ず度すべし」と。この念を作す時、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。「仁者ただ決定してこの道を尋ねて行け、必ず死の難なけん。もし住まらばすなわち死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と』

行者が決死の覚悟をもって、狭小なる四五寸の白道を渡らんと決断をした時、初めて釈迦弥陀二尊の声を聞くと記されている。すなわち決断する前に教えが聞こえたのではなく、わが身を棄てる覚悟を持った時、初めて聞き開かれる世界なのである。自分の世界に安住し、とどまっていては決して開かれないことを聖人の下山が物語っているのである。

その聖人の精神を思う時、自分の殻に閉じこもり、本気で念仏に生きようともせず、理屈をこねているわが身を心より慚愧す。

願わくば、勝光寺を建立された人々、時代の荒波が押し寄せても三度の火災に遇っても、再興し続けた人々、先祖代々の御同朋御同行衆の志願に立ち、この度の親鸞聖人の法要を縁として、私は本願の歴史に参画したいと思う。居場所のない今日の時代において、御門徒や有縁の方々と共に教えを頂きながら、同朋社会の顕現に努めることを御尊前の前で表白するものである。

2014年5月25日

勝光寺 二十六代 住職 釋 樹諦 (能邨勇樹)

西恩寺住職の実兄のお寺(勝光寺)で宗祖親鸞聖人750回報恩会がお勤まりになりました。西恩寺の婦人会の皆さまもバス一台で37名お参りくださいました。

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私も2日間お参りすることができました。
法話は西恩寺前住職が担当です。

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ご縁の深い、北陸の同行の方々もたくさんご聴聞いただきました。

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改めて、

御遠忌法要は「始まり」であると、教えられます。

どんな私(お寺)に成りたいのかと。

日常は、生活に追われ、バタバタと過ごしがちです。

不満やイライラの中で、「これではない」と気分を

「自分」として生きています。

大法要は大きな節目としてあります。

改めて、私はどうしたいのか、

何を願っているのだろう?と問いかけられています。

西恩寺も私自身も大法要に向けて

その確認を大切にしていきたいと思います。

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(住職)

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