- (2012年8月29日)
・・・・・・・・・・・・
自我をなくならせる方法を探している自分に気づきます。
苦悩があるのは自我があるからだ。では自我を抑えるにはどうすればいいのか、と無意識に考えてしまいます。
なかなか「またやってるな」と眺めることはできないです。
私有化していることに感づいたりすると無意識の内にその意識を消しにかかろうとします。
「私有化するから悪いのだ」「自我があるから悪いのだ」と何かを原因に仕立て上げないと落ち着かないのかもしれません。
そして仕立て上げた原因への対処の方法を模索します。
これがいわゆる「はからい」というものなのかもしれないなと思いました。
こうやって「法を求めるふり」をして実はずっと自我に振り回されていたのかもしれませんね。・・・・・
- (10月19日)
最近、少し行き詰っています。
いつまで経ってもわからない自分自身に腹を立てたりしています。
人生の中で、「これだ」と思うものを掴むまでは生きていてもむなしく感じます。
けれどもそれが何なのかがわからないので毎日むなしいという思いの中で生きています。
どうしたら助かるんだろう、助けてくれるものがあればすぐにでもそれに飛びつくのに、などと思っています・・・・・・・・・・。
- (10月20日)
私は自分が感じる「むなしい」という感情はある種あって当然の感情だと思っています。
今のままの人生を過ごして死んでいくのはひどくむなしいことのように思えます。
ですから、この感情は私なりの求道のようなものの原動力のように思っています。
ですが、わからなくなりました。
この人生に対する危機感をなくす方向で考えるべきなのでしょうか。
自分では「真理」がわからない限り体調は良くならないような気がしています。
ずっとそのように考えてきたのですが、「真理」「信心」に固執することそのものがもし間違いだったらどうしようとこの頃思うようになりました。
何が正しくて何が正しくないのかわからなくなりました。
・・・・・・・・・・・・・
- (10月22日)
今の自分を見てみると、空っぽのように思えます。
ですから真理を求めずにはいられません。
真宗の本を読んで、真宗の教えとは自分を与えられることだ、と知りました。
今の私には自分がありません。
ただご飯を食べて、ただ便を出して、ただ寝るだけの一生です。
そこに自分がありません。ただ本能にひきずられているだけです。
主体性がありません。
その危機意識が真理を外側に求める方向へと駆り立てます。
もうやめようと思っても心は正直なものでやめることができません。
・・・・・・・・・・・・。
- (10月25日)
・・・・・・・・・・・
何回かお話をさせていただいてふと気が付いたのですが、
一番私がお聞きしたかったことは、
私が今必死になって求めている「自分を与えられる」ということや
主体的、能動的に生きるということなどの
これらの問いは果たして正しいのだろうか、ということです。
これを求めなくては人間として生きたとは言えないとは思うのですが、
これを求める自分の姿勢には誤りがあるようにも思えてきました。
私はこの問いを持ち続けなくては信心はいただけないと思っていたのですが、
今の私はこの問いに固執しているだけのようにも思えてきました。
それで、私は正しいのでしょうか、とお聞きしたかったのだと思います。
(その後、西恩寺の報恩講にお参りに来てくださいとお誘いしました。)
- (11月24日)
色々考えました結果、報恩講にお参りさせていただくことにしました。
12月1日、2日とお参りさせていただこうと思います・・・・・・。
(2013/02/15)