ご信心をいただきたいのですが⑥

〈2012年8月1日に京都 東本願寺で待ち合わせをし、彼とお話することができました。〉住職

 

 

(2012年8月28日のメール)

先日、送って下さいました平野先生の『本願と意欲』の中(52ページ)に、次のような文章がありました。

 

私が初めてそういうことに、虚偽であることに気づかされたということがありました。横断歩道を渡ろうとして左右を見て、ああ大丈夫だと思って、一歩踏み出した途端に、俺が大丈夫だという保証は誰がしているのか、という声を聞いたわけです。(中略)自分で自分が大丈夫だと言っているのですから、何の保証にもならない。何の根拠も持っていない。そのことから一挙に、自分はとしている事柄は、何の根拠も持っていないのではないか、ということが出てまいりまして、その時は金縛りにあいました。動けなくなりました。何んと当てにもならないものを当てにして生きているか。(中略)そうすると、寝れないわけです。寝てる間にいかれたら、これはたまらんということで、起きていなければならない。いつまでも起きているわけではありませんから、とうとう不眠症になる。そういうことが、以前にございました。

 

私は自分で自分の状態があまりよく見えていないのですが、平野先生のこのお言葉の中に私の感じているものと近いものを見ることができた気がいたします。

当てになるものが何もない中を毎日生きていて、非常に不安です。何か当てになるものをと探していますが見つかりません。見つからないで過ぎていくその時間が、無駄に過ごしてしまった時間のように感じられていつも焦っています。悩みを解決できたなら、努力したそれまでの時間は有意義な時間だったと思うことができますが、解決のしようのないものを追いかけている間の時間は、ただの無駄な時間としか感じられません。

先生は不眠症になられたそうですが、私は薬があるので眠ることはできています。ただ、毎日、当てになるものがなにもないという中で生きていくことが大変に辛く、何をしていいのかわかりません。何をしても、それが当てにならない不確かなことのように思えますし、何かをしたところで、死ぬまでに与えられた時間を無駄につぶしたような気になってそれも辛いです。

ご住職は毎日の当たり前のことをするのがいいとおっしゃって下さいましたが、死のことを考えると、目の前のことに集中することがむなしく感じましてそれもなかなか思うようにはできません。

当てになるものを得ることこそが人生で大切なことであって、それ以外のことは些細なことでしかない、と私は思っているのですが、これが間違っているのでしょうか。

平野先生は金縛りにあい動けなくなり、また不眠症にもなられましたが、その状態からどのようにして救われたのだろうかと不思議でなりません。私などは「救われた」というそこに至るまでがなかなかにしんどくて閉口しております。

自分が何に悩んでいるのか以前よりは少し整理できました。・・・・・・

(2013/02/12)

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