ご信心をいただきたいのですが、①

 

この西恩寺ホームページに「問い合わせ」がありました。(2012/07/21)

以下、その「問い」を掲載いたします。(住職)

 

初めまして、I・Yと申します。在家の者ですが、どうしても信心決定させていただきたく思っておりまして、問い合わせさせていただきました。 偶然、インターネット上で池田勇諦師のお言葉を読ませていただいて、何か大切なことを言っておられるに違いないと思い、それから調べてこちらのHPへたどり着きました。

さて、初めに言いましたように、私はご信心を頂きたいと願っているのですが、どうしても頂けません。 何をお尋ねすれば良いのかもわからず、まとまりのない文章でご迷惑かもしれませんが質問させていただきます。

私なりに考えていることなのですが、私が「私は凡夫である」と言いましたとき、それは口先だけで言っていて本当に己が凡夫であるとの自覚がないというのが正直なところです。 けれども、己が凡夫であることを無明のために知らないからこそ凡夫なのではないかとも思っています。 そう考えまして、信心をいただくというのは、凡夫(私)が凡夫であることを知ることなのではないかと思いました。私はこのように推測するしかないのですが、このように考えても間違いはないのでしょうか。 また、間違いがなかったとしても、このようなことを考えるのは自力に頼ることになるのでどちらにしてもやめるべきなのでしょうか。 どうかお教え下さると幸いです。

私は人よりも考えすぎる性格であると自覚しておりますが、真宗ではよく「考えるよりも信じなさい」ということをお聞きします。 この言葉は文字通りに受け取るべきなのでしょうか。 信心をいただくためには考えることは全く必要がないのでしょうか。そうではないと私は思いたいのですが、この「こう思いたい」という心が救いの法を所有化する心なのかとも思い、一体どう考えれば良いのだろうと困っています。

 それから、信じるべきは阿弥陀様が「念仏称えた者は皆救う」とおっしゃって下さった、そのことのみと聞きます。 しかし私は念仏を称えましてもどうも救われたという気がいたしません。そのときの私の心の中を覗いてみますと、「本当にこれだけで救われるのだろうか。何か物足りない。」という気持ちがあります。 自分なりに思いますに、この物足りなさは自分の気に入るものを欲しがる自我の心だと思います。 この心のせいで人間は苦しみの世界をさまよっているのではないかと、このように私は考えていますが、このように考えてよろしいのでしょうか。 しかし、苦しみのメカニズムを知ったところでしょうがないのだろうかとも思います・・・。 私は「信をいただくというのはおそらくこういうことなのだろう」とそのような推測ばかりをしているのですが、そのようなことには意味はないのでしょうか。 形ばかり求めていて中身が全くなく、一体どうしたものだろうと悩んでおります。 要領を得ない文章になってしまいまして申しわけございません。お尋ねすべきことをお尋ねしなければと思ったのですが、何をどうお尋ねして良いのかわからずこのような文章になってしまいました。 このようなものにお時間を取らせるのも申し訳ないことですが、何かお返事下さると有り難いです。 どうか宜しくお願い致します。失礼致します。

 

というお尋ねでした。私、住職としては、まず、「どうして信心獲得が問題なのでしょうか、どうしてそんなに信心をいただきたいのですか?」を、お知らせ下さい。あと「あなたの身辺を、差し障りのないところで、教えて下さいますか」と付け加えました。

その返事についてはまた、改めて掲載致します。

今もメールでの交流を続けています。

ご一読頂いた方は、「交流の広場」ですから、ご意見、アドバイスをお願い致します。

(ご本人の許可を得てこの文章を掲載しています。)

(2012/08/16 住職)

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