万物一体の真理

20190104_011002先人が「いのち」(存在)について述べられています。
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もしもあなたが詩人なら、この紙の上に雲が浮かんでいるのが、はっきり見えることでしょう。雲がなければ雨は降りません。雨が降らなければ、木は育ちません。そして木がなければ紙はできないのですから。この紙がこうしてここにあるために、雲はなくてはならないものなのです。もしここに雲がなかったなら、ここにこの紙は存在しません。それで雲と紙は「相互共存」しているといえるのです。

この紙をもっと深く見ていたら、この紙のなかに太陽の光も見えてきます。太陽がなければ森は育ちません。実際、太陽がなければ、何も生きていくことができません。それで太陽もまた、この紙のなかに存在していることがわかるのです。だから、この紙と太陽も「相互共存」しているのです。

もっと深く見つめてみると、木こりが見えてきませんか。木こりが木を切って製紙工場に運び、紙が作られます。そのうち小麦も見えてくるでしょう。木こりは日々のパンがなければ生きられないので、木こりの食べるパンになる小麦も、またこの紙のなかにあるわけです。それから木こりの両親も見えてきますね。

このようにどんどん深く見てゆけば、数えきれないほどたくさんのものがあってはじめて、ここに一枚の紙が存在するということに気づくでしょう。・・・・

この一枚の紙のなかには、あらゆるものが入っているのです。ここにないものをひとつでも捜すことはできません。時間、空間、地球、雨、土壌のなかの鉱 物、太陽の光、雲、川、熱……すべてのものが、この一枚の紙のなかに共存しているのです。

「ここにある」とは「ともにある」ことです。

私たちが、あるいは、何かのものが、ただ自分だけで存在するということはありえないのです。私たちは、ほかのすべてのものとともに存在しているのです。一枚の紙がここにあるのは、ほかのあらゆるものがここにあるからなのです。
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「私」という存在は、初めに「私」があって、単独で成り立っているのでなく、私以外のものが、私を成り立たせ、構成しています。沢山の人間関係や歴史・社会を持って、私が今ここに「存在」しています。仏教ではそれを「万物一体の真理」という言葉で表現しています。
それは、固定化されたものでなく、

「動詞」、なまもの、ハタラキとしてあるのでしょう。
それは、「一人」の中に全人類、全世界、全歴史が共に在ること、

「公なる存在」と言うことです。広い、深い「いのち」を生きています。

この与えられたこの「自他のいのち」を私有化(自己中)することなく、

広い・深い「いのち」を想い起こし、

(我々は、すぐに忘れるようになっています。だから、教えを聞くのですね…)、
「生まれてきて良かった」と言える「完全燃焼」の人生を、

生きることが願われています。
#お寺の掲示板

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