「国土建立の願い」

 

普段、我われは、無意識に自分を肯定しています。自分は「善人-善き者である」と思っています。悪人ではなく、善人であるという思い込みを生きています。「それなりに頑張っているし、まんざらでもない」と思っています。また、その「善人性」を生きる支えにもしています。人さまに非難されないように、後ろ指をさされないように、努力もしています。

しかし長い人生の中で(生活の中で)、その善人意識を、突き破って本性-「凡夫性」(悪人性)が噴き出してくるのです。その時、我われの、その意識は、徹底的に事実の自分、「悪人的自己」を裁き、排除しようとするのです。「これは、本来の私ではない」、「たまたま、魔がさしただけだ」、などと言って、その事実を認めようとしません。「悪人的自己」―凡夫を受け入れられないのです。凡夫を生きられないのです。

生身をもって生きる限り、縁の中で、「悪人性」-「凡夫性」が暴露されてきます。その時は、共に在る「いのち」が傷つけられたときです。その「いのち」(他者)には眼が向かず、自分の「善人性」が壊れたことにのみ関心がいくのです。

だから、凡夫(悪人)の自分を憎み、非難するという形で、その「善人性」を保とうとするのです。「善人性」を守るためには、自らの存在を消すことさえあるのです。(こんなことを仕出かした私は、世間に顔向けができない、生きる価値などない。 こんな自分は生きる意味がない、というような思い。) この善人意識は、おそろしい暴力性を持っています。他者はいうに及ばず、自分さえも抹殺してしまうのです。

親鸞は、この「善人意識」を《みずからがみをよしとおもう・みをたのむ・あしきこころをさかしくかえりみる・ひとをあしよしとおもう》こころ、「自力のこころ」と、言われます。その「自力のこころ」を中心に生きる限り、結局は自らに失望し、自らを見捨て、他者とも分かり合えません。(自害害彼)

そういう我われに、「国土」(居場所)を与えようというのが、念仏―本願(南無阿弥陀仏)の呼びかけです。「念仏して浄土に生まれなさい」という教えは、まさに「自力のこころ」-善人意識を中心に生きている者に向って呼びかけられています。

「善人は居場所が与えられるが、悪人には居場所がない」という深い思い込みの中、いつでも善人でなければならないという脅迫観念の中、凡夫の身を怖れ、不安を抱える私に、「国土」「大地」を与えるという形で、私が安心して生きる居場所を、他者と共に生きていく「世界」を与えてくださるのです。「凡夫を生きる」という生き方を開いてくださるのです。

自らを(人生を)尊敬し、縁あって共に生きている他者を尊敬し、向き合って生きていく根拠、主体となる「国土」「大地」を「浄土」として用意されているのです。

「浄土」は、「善人意識」(日ごろの心)が、「虚偽的・暴力的・偏狭的」であることを知らせ、その「迷い」に「目醒めよ!」と呼びかけて、私の「気づき」(傷み、悲しみの感覚)を待っています。

 

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