親鸞は父母の孝養のためとて
一返(いっぺん)にても
念仏もうしたることいまだそうらわず
『歎異抄』
親鸞は亡き父母の追善供養のためと思い、一度も念仏申したことはないと。
何と破天荒なことを。
だがそれは父母(先祖)も念仏(経典)も、ともに私有化することのできないものだがらという。
わが父母・わが祖先・わが民族等(など)と私有化する意識は、いのちの真実に暗い「私性」であり、だからまた「私性」自身の闇を透視する究極的な光(念仏)をも、「私性」満足の手段となしてしまう。
この二重に私する罪を自己に見た親鸞の懺悔(さんげ)こそ、この一語の真意にちがいない。
ここにはすべてをモノ化する現代文明に対して、万物同根・万物一体という人間の依って立つ真の「公性」とは何かが告げられていないか。人権の原点だ。
2002年3月10日