中日新聞 〈人生のページ〉 ⑤

親鸞は父母の孝養のためとて
一返(いっぺん)にても
念仏
もうしたることいまだそうらわず

                   『歎異抄

 親鸞は亡き父母の追善供養のためと思い、一度も念仏申したことはないと。

何と破天荒なことを。

だがそれは父母(先祖)も念仏(経典)も、ともに私有化することのできないものだがらという。

わが父母・わが祖先・わが民族等(など)と私有化する意識は、いのちの真実に暗い「私性」であり、だからまた「私性」自身の闇を透視する究極的な光(念仏)をも、「私性」満足の手段となしてしまう。

この二重に私する罪を自己に見た親鸞の懺悔(さんげ)こそ、この一語の真意にちがいない。
ここにはすべてをモノ化する現代文明に対して、万物同根・万物一体という人間の依って立つ真の「公性」とは何かが告げられていないか。人権の原点だ。

2002年3月10日

 

This entry was posted in 池田勇諦(前住職)の話. Bookmark the permalink.