西恩寺宗祖750回会「本堂修復奉告法要」 表白

本堂修復奉告法要 表白

敬って光明無量、寿命無量の救主阿彌陀如来、並びに教主釋迦牟尼世尊、及び三国伝統の七高僧、さらに三世十方の諸仏諸菩薩に向かい奉り、恭しく尊前を荘厳し香華を捧げて謹んで申しあげます。

このたび当諦受山西恩寺においては、宗祖親鸞聖人の750回会大法要を勤修するにあたり、まず多年懸案の当山御本尊御尊像について西恩寺婦人会の御寄進により、御宮殿の内法に相應せる新しい御尊形をお迎えし、奉安する勝縁を賜りましたことは喜びのなかの喜びであります。

続いて、このたびの記念事業として本堂耐震、修復工事を門徒会を中心に広く有縁の同朋の方々の多大なるお力添えにより、完遂することができました。ここにその感謝の奉告法要をお勤めし、多くの篤い御懇念に対し報謝の歩みを新たに心に刻む次第であります。

顧みるに、当山西恩寺は開基喜受法師、俗名池田喜一の並なみならぬ「仏法ひろまれかし」の志願から創建された聞法の道場であります。そもそも喜一のそのような願いはその父市松、法名諦受の篤い聞法心によって育まれたものであり、そのまた感化を受けた市松の妻「いよ」は、病弱の身が強縁となり聞法に生き甲斐を見いだす人となりました。喜一はそうした両親の念仏により自然に念仏を喜び、その喜びを伝える責任を感ずる生活者となっていきました。

時に大正11年(1922年)、当時は一年の半ば近くは雪に埋もれる加賀の山村(現・石川県小松市瀬領町)から年間通して労働に從事することができる三重のここ、桑名を有縁の地と選び移住したのでありました。

喜一の聞法相続心は新しいこの地に来って弥増すこととなったのは、当地の桑名別院本統寺における法座に詣でる縁ができたからでした。そのころ老母いよは、桑名別院での聞法を日課としていましたが、視力を失っていたため誰かの手引きが必要でした。それが思いもよらぬ新しい仏縁をひらくことになるとはまことに不可思議であります。それは喜一の五男、勇 のちに西恩寺第二代住職となった私が、数え五歳の春から祖母の手を引いて別院への聞法の日々が始まったのでした。宿縁の然らしむるところであろう。私は祖母の強い感化をうけ、「後生の一大事の解決は、僧侶になるほかなし」との思いに至り、昭和15年9月7日、満6歳(翌年から現行の9歳に)で、桑名組長願寺の衆徒として大谷派僧侶、勇諦の度牒を拝受したことであります。

父喜一の「仏法ひろまれかし」の志願は、私の得度によって、いよいよ熾盛となり、自宅を昭和22年4月に私設「八幡説教場」として開放し、遂に有縁の人びとの篤い支援により、昭和24年6月自ら開基住職、代表役員となって宗教法人西恩寺を創立し、昭和32年2月、現在の本堂建立の難業を果たして、3年後の昭和35年8月20日、行年70歳を一期として浄土に還帰したのでありました。

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それに先だって、開基喜受は勇諦を第二代住職に就かせ、昭和30年6月真宗大谷派に所属することの承認認可を得て新しく「真宗大谷派西恩寺」として出発することとなったのでありました。

思えばこれまでの紆余曲折の歩みにも、多くの先輩諸師のご慈育と励ましがあったればこそであり、憶念して今も熱いものがこみあげるのを覚えます。

こうした七十有余年の歩みを経て、現在する西恩寺の志願は、平成16年 (2004年)、四月第三代住職・事諦(勇諦の二男)に継承され、激変する時代社会の状況の中にあって、ひたすら自信教人信の誠を尽くさんとする姿を眼のあたりにするとき門信徒、有縁の御同朋の深い御慈育があればこそと、拝謝せずにはいられません。

請い願わくは三世十方の諸仏諸菩薩の哀愍摂護を仰ぎつつ、ひたすら本願念仏の相続に生ききった開基喜受法師の宿願に、われひと相い共に生きんことを、深く御尊前に誓言し奉る次第であります。

2017年(平成29年)

5月5日 諦受山 西恩寺前住職 釋勇諦

敬って白す

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