ほんにいままで、知らなんだ③

●「七つには 泣いて笑うて地獄をつくる、浄土の中の地獄とは、ほんにいままで、知らなんだ」。これもほんとに味わい深いと思うんですよね。私たちは、浄土の中に置かれておりながら、自我・分別・はからいいっぱいで地獄に作り替えておるわけです。それをいうわけですね。だから地獄というのは、浄土を限りなく人間の自我で汚している、そういうことです。地獄と浄土というものは、平面的ではないんですね。こちらに地獄があって、向こうに極楽とか、そこの平面的じゃなくて、立体的だということなんですね。重なっている。重なっていると言った場合に、その下になっているもの、根底になっているものこそが浄土なんですよ。それをいつも自我で汚して、汚染して、作り替えておると、そういう構造をいうているわけですね。

●「八つには 役にも立たぬ雑行(ぞうぎよう)雑修(ざつしゆ)を、すてもせず 親さま泣かせていたことを、ほんにいままで、知らなんだ」。真宗ではご本尊・阿弥陀如来を「親様」と、昔からこう言い慣わしてきておるんですよね。阿弥陀を親とする。阿弥陀如来によって私たちは仏(ぶつ)にならしめられるんですから、阿弥陀の子になることですからね。だから子に対しては、親ですから、阿弥陀を「親様、親様」とこう言うわけですね。この「雑行(ぞうぎよう)雑修(ざつしゆ)」ということも、要は今言っている我々の自我の分別・はからいを言っていることなんですね。自分の分別・はからいの満足を追求して生きておる。あるいは仏法も聞いておる。だから、はからいを捨てよ、とこう言われたけれども、雑行(ぞうぎよう)を捨てよ、と言われるんだけれども、捨てもせず、仏に限りなく背き続けている自分だということを、ほんに今まで知らなんだ。親様泣かせていたことを、ということは、背き続けてきた自分だということを、今気付かされたと。

●「九つには 光明(こうみよう)摂取(せつしゆ)の網の中、逃げても逃げれんおひかりとは、ほんにいままで、知らなんだ」。この光明摂取ということですが、字の通り光、摂取はおさめ取るわけですけども、この光というのは、阿弥陀如来の働きなんですね。私たちを抱き取る、摂取する、その働き。それを光と、いわば喩えですわね。知恵の働きを光と表現するわけです。だから知恵の働きですから、阿弥陀に会うと言っても、先ほど第一の歌詞からズーッとそれが表れておるんですけど、今日の自分のあり方が照らし出されるということです。だからその意味では、仏法が分かるということは、結局自分を知らされるということなんです。だからこの阿弥陀仏というと、なんか私たちは実体的に、どこかにそういうものを思い描くんですけども、じゃないんですね。特に親鸞はこのことを重視していますけども、光明摂取なんです。智慧の働き、光の働き、我々を追っ掛ける。どこどこまでも追っ掛け、どこどこまでも照らす、という形をとるわけですね。光明摂取の網の中、逃げても逃げれんお光とは、ほんに今まで知らなんだと。そして最後に、

●「十には となえる称名(しようみよう)そのままが、親のよび声ということを、ほんにいままで、知らなんだ」。これはほんとにそのままで、称名(しようみよう)は「なんまんだぶつ」と口に称えるこの念仏です。この念仏は、実はそのまま阿弥陀如来の呼び声なのだ、ということなんです。私たちの口に、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と現れ出る、そういう形をとりますけども、それはそのまま阿弥陀仏が、我々を呼ぶ声なのだ、ということです。だから私たちは称名(しようみよう)念仏ということは、聞くということなんです。この口に現れてきてくださる、つまりここまで呼びかけてくださっておる「南無阿弥陀仏」という呼び掛けを聞く。それしかないということになるわけです。それをこの言葉は表しておるわけです。仏教が分かるということは、私たちの分別の心の延長上での出来事ではありません。まったく分別の物差しの他なのです。ほんに今まで知らなんだ。これはまさにその一言として私には響くのです。私たちの生き方は、常に現前の事実、なっている事実を棚上げして、自我の分別心で、ああなったら、そうなったらと夢を追い掛けて振り回されているのではないでしょうか。今は亡くなったのですが、福井に前川五郎松(まえがわごろまつ)という方がおられました。この人も一生懸命、仏法を聞き抜かれたお方です。その人がこんな告白をしています。

 

うらの仏法は、(うらは北陸の方では自分のことを表す方言)

極楽探し、十万億まで探してみたが、

今が今とで見つからん、

分からんはずじゃも近すぎて。

 

ほんとにそうですね。思いを超えて、なっている今、ここのこの事実に回帰してみれば、道は近きにあり、既に道ありです。現前の事実と向き合っていく歩みに、運命が開かれてゆく不思議さがあります。今「運命」と申しましたが、仏教ではそのようなことは説きませんが、今は文字通りいのちが運ばれているという意味で使わせて頂きます。その意味で運命はまことに開かれていきます。ほんに今まで知らなんだ。これは自分の方向違いが知らされた懺悔の言葉と言えましょう。ですからこの懺悔に常に自分の見当違いと真の方向を知る智慧を習い続けていく歩みが始まるのです。松岡なみさんの仏法の聞き方の確かさを強く感じますと同時に、私たちの課題がなんであるかということを、私は改めて学ばせて頂いているような次第です。

  (平成20年10月26日)ラジオ放送より

     

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