ほんにいままで、知らなんだ①

一つには 必定(ひつじよう)地獄と聞きながら

うぬぼれ心にだまされて

()ちるわが身ということを

ほんにいままで、知らなんだ

 

二つには 不定(ふじよう)のいのちをもちながら

よもやよもやで日を送る

今宵も知れぬいのちとは

ほんにいままで、知らなんだ

 

三つには 皆さん後生(ごしよう)は大事やと

ひとには言うて聞かすれど

わが身の大事ということを

ほんにいままで、知らなんだ

 

四つには よくよくお慈悲を聞いてみりゃ

たすける弥陀が手をさげて

まかせてくれよの仰せとは

ほんにいままで、知らなんだ

 

五つには いつもお礼はいそがしく

浮世ばなしに気が長い

かかる横着者(おうちやくもの)ということを

ほんにいままで、知らなんだ

 

六つには 難(むつ)かしむつかしと歎いたが

おのれが勝手にむつかしく

していたものということを

ほんにいままで、知らなんだ

 

七つには 泣いて笑うて地獄をつくる

浄土の中の地獄とは

ほんにいままで、知らなんだ

 

八つには 役にも立たぬ雑行(ぞうぎよう)雑修(ざつしゆ)

捨てもせず 親さま泣かせていたことを

ほんにいままで、知らなんだ

 

九つには 光明(こうみよう)摂取(せつしゆ)の網の中

逃げても逃げれんおひかりとは

ほんにいままで、知らなんだ

 

十には となえる称名(しようみよう)そのままが

親のよび声ということを

ほんにいままで、知らなんだ

 

この一連の数え歌は、私、三重の桑名ですが、随分古いことながら、桑名市に松岡なみさんという、とても篤信(とくしん)な人がおられまして、その人からよく聞かせて頂き、大変印象に残っているものなのです。松岡なみさんは、桑名市の真宗大谷派晴雲寺(せいうんじ)というお寺のご門徒で、実に仏法を聞くために生まれてきたことを、身をもって生きられた人、そんな人でありまして、多くの人々を啓発してゆかれた方でした。昭和二十年代の半ば、敗戦後、間もなくですが、名古屋の息子さんの所に移られたため消息が定かでありませんが、おそらく昭和三十年前後に八十何歳かで亡くなられたのではないかと思われます。桑名在世のご生前、私の祖母も親しくして頂き、私も随分可愛がって頂きました。それというのも、私がこの道に入れて頂けたのは、まったく祖母の導き、感化によるものでしたから、子どもの頃から祖母と一緒に桑名の「ごぼうさん」(桑名別院)へご法話を聴聞に行くということが日課になっていました。そんなことで松岡なみさんにもお会いしたわけで、大変こう目に掛けてくださって、可愛がってくださいました。そんなこともありまして、家にもよく来てくださって、特にお内仏報恩講(ないぶつほうおんこう)には必ずお見えになりまして、一緒に正信偈(しようしんげ)、念仏、和讃のお勤めをして、終わると聞かせてくださったのが、今のこの一連の歌でした。

 私がこれを最近ある小冊子に紹介しましたら、早速、石川県珠洲市(すずし)の西山郷史(にしやまさとし)さんというご住職でもあり、しかも宗教民族の研究者でもあられるお方からお手紙を頂きました。それによると、「この歌は古くから能登地方の浄土真宗のお説教の中に語られてきたもので、かなり各地に伝えられている。そして例えば加賀の白山麓の地域などでは、民謡となって人々がいろいろな機会に歌っているという、そういう形にまで広がってるものです」と教えてくださいました。そうしたこの歌のルーツからすると、今の松岡なみさんも、おそらく能登地方から来られた布教師の方のお説教で聴聞されたであろうことが思われるのです。しかしルーツはルーツとして、それが単にオウム返しに、口真似されていたという借り物の印象ではありませんでした。まったく松岡なみさんの身体から溢れ出ている言葉として、聞く者の胸を打ちました。私も子ども心なりに、凄いお婆さんだなぁと感じたことは、今も私の中に深くインプットされています。それは松岡なみさんの人並み外れた求道に、裏付けられていたからだと思います。よく松岡なみさんと祖母の会話から聞いた言葉ですが、「人並みに仏法を聞いていたら、人並みの仏法しか聞かれん。人並み外れて聞かなければ、人並み外れた仏法はわからんでなぁ」。その意味で、松岡なみさんの聞法求道によって、この一連の歌もまったく主体化されていたという他はありません。

(つづく)

(平成20年10月26日)ラジオ放送より

(前住職)

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