しかれば すでに 僧にあらず 俗にあらず
親鸞『教行信証』
親鸞は越後流罪という逆風を縁として、無仏の世を真に生きぬく仏教徒のありかたを、標記のことばで表現した。
そこには人間生活を遮断した(持戒)いわゆる出家主義との訣別が、「僧にあらず」と言わせ、また日常生活に埋没した(破戒)在家主義への拒否反応が、「俗にあらず」と言いきらせた。
つまり出家・在家が人間の立場に始発するかぎり、一方は形式主義に、他方は放逸主義に。その虚構性と欺瞞性とをまぬがれない人間の現実を、自己をとおして批判した親鸞であった。
それはもはや持戒・破戒の立場を出離した無戒(仏の本願)の立場。人間生活をそのまま仏道と転ずることなくして、どこに万人の仏道があろうか、を親鸞は法然との出遇いに確信したのであった。
前住職 (2004年11月14日)