中日新聞 〈人生のページ〉 ㉘

ふいっと (わか)らして もらったいな      

                 妙好人・源左

 私はこの夏、(2001年)

大学の海外ゼミでインドとネパールに旅をした。

インドへは二度目だったが、仏蹟(ぶっせき)を巡拝するなか、

釈迦の成道の地・ブッダガヤに(もう)でたとき、

ふっと浮かんできたのがこのことばだった。

「ふいっと」というところに、飛躍がある。

徐々にわかることだろうと思っているとき、

「ふいっと」の飛躍が最要だ。

「さとり」は理知の延長上に何かがわかったということではない。

それならば、わかった自己と同質のものだ。

「さとり」は異質なものとの出会いだから、必ず飛躍がある。

菩提樹(ぼだいじゅ)下の金剛宝座を拝して、

釈迦もきっと「ふいっと」わかられたにちがいない、

そんな念が走った。

これから何かに成ることではない。

すでに成っていること、在ったことの驚きなのだ。

2001年12月16日

 

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