中日新聞 〈人生のページ〉 ㉓

真の(ごん)は ()に対し ()に対するなり

                     親鸞『教行信証』

 

生きることについての「真実」を求めてやまなかった親鸞は、

単に真実が知れたいという観念的なことではなかった。

人間として生きる具体的な現実のなかで、

「真」なるもの、「偽」なるもの、「仮」なるもの、の

区別が明らかに知れることであった。

現実存在は内外の条件による生起であるから、

すべて「仮」だ。「仮」は「かり」で、過程を意味する。

通路ではあっても(とど)まる所ではない。

にもかかわらず、途中を目的と勘違いして

「真」だと固執すれば虚「偽」となる。

「仮」によって「真」を知れば、「仮」は

「真」に到る「仮」設の橋だ。

まず、この身体が、「仮」だ。

「真」の自己に()わねばならない。

教団も、国家も・・・すべて「仮」。課題的存在だ。

2003年7月27日

 

 

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