2021年修正会 総代感話

私が修正会の感話があたっていると言うと、妻が「あなたの場合は、話の中に私や家族の話を入れるから嫌だわ」と、言われました。しかし感話というものは一般論ではなく、自分のことを話すことだと思っていますので、話の中に出てきても仕方がないと諦めてもらうしかないと思っています。

さて、先の報恩講に新潟県から母娘で参加された女子高校生の方が、僧侶である父親さんに「お父さんは、いつも、浄土・浄土と言って、皆さんに話しているけれど、その浄土を私に理解(わか)る様に話して明らかにして欲しい。」と懇請したが駄目でしたという話をされて、そのことを課題として大谷大学に進学するという話をされました。

 そのことで思い出されるのは昨年(2020年)の9月に西帰された叔父さんが、10年程前になるかと思いますが、法話への感想の中で「浄土真宗のお話は難しくて、浄土へ往生すると言われるが、自分には少しも実感できなくて理解(わか)らない。他の宗教ではもっと具体的に理解(わか)り易く話をされているところもあるではないか。」と話されました。頭脳明晰で、かつ努力家でもあった叔父は仏教の本も沢山読んでいて、法話もしっかり聴聞していても、なおかつ自分の身には実感できないとの言葉であったと思います。

 報恩講では『生産道としての浄土真宗』という讃題で法話がありました。その中で自分を主体とし、仏法・仏様を対象・客体として信ずる場合、自分の自我意識で仏法を聴聞(き)いて、理解(わか)ろうとするものであるので、いくら知識で理解(わか)っても自分自身が変わる訳ではないので救われることはない。

どこまでいっても死や運命に対する不安・恐れから逃(のが)れられず、救われることはない。救われるとは、私心、自我の分別・妄想が廃(すた)れ、信ずる対象である仏様の智慧に基づく価値観を得ることであると聴聞(きき)ました。

言葉では簡単に言えます。しかし、『私達は』と言いたいところですが、「私は違うよ」という方も見えるかと思いますので、『私は』と言いますが、私の自我意識はどこまでも我が身が大事、自己中心、自己愛というところで生きています。

FB_IMG_1601629852784しかし、よく考えてみれば、その当時は四世代8人家族で生活していて、妻は朝早く起床して朝ご飯を作り、洗濯もして仕事に出かけなければならない状況で、毎日くたくただったと思います。その時、私は相手のことが全く見えていなかったのだと、今になると思えます。本当に自分中心、自分だけが大事の一事でした。

そして、2年半前になりますが、夜中の1時過ぎにトイレの中で急に胸が苦しくなり、声も出せなくてトイレのドアをドンドン叩いて寝ている妻を起こし、救急車を呼んでもらい、廊下でうつ伏せになって救急車の到着を待っていたのですが、もしかしたら、自分はこのまま死んでしまうのではないか。妻に何も伝えないで死んでは悔いが残るのではないかと思い、「もうこれはダメかもしれん。今までありがとう。後のことは頼む。」と言ったことはハッキリと憶(おぼ)えています。妻の話では救急隊の方に運ばれて救急車に乗る時まで「胸が苦しい、息が苦しい」と煩(うるさ)く言っていたみたいで、隣近所にも聞こえ、夜中の2時に起こして迷惑をかけるのではないかと、ハラハラ心配していたと言われました。

本人には全くその様な記憶はなくて全く別のことを考え、先程の様なことを言ったということを今もしっかりと憶(おぼ)えています。その時は身体の苦痛から離れ、頭の中は平穏で静かな時間であって、冷静に判断して自分の思いを伝えたつもりですが、今になってその時のことを想(おも)い返すと、それが死んだ時に自分を良く見てもらいたいとの自己愛から来ていたのか、自我、つまり自意識を離れたものであったのか今もってよく理解(わか)りません。しかし、その時は自分がこれで死ぬかもしれないという現実を受け入れたことは間違いないと思います。

 FB_IMG_1595567673731しかし、今現在はその時のことをすっかり忘れ、自分大事・自分が一番という元の考えに立ち戻った生活をしていて、「あの時に自分の言ったこと覚えてないの?」と妻に呆(あき)れられている次第です。

(西恩寺総代 田中喜弘)

This entry was posted in 門徒の声. Bookmark the permalink.