(西恩寺総代 桑原克さんのテレホン法話 2015/04/16~30)
自坊西恩寺の法座でよく聞かせていただいている前川五郎松という、
聞法者の言葉があります。
『生き甲斐』というテーマで、
「私たちは、様々な物や、人を当てにして、生きている。
しかし、その頼りにしていることや、私の〈生き甲斐〉にしていることが
次々に当てが外れていく」のではないか、と問いかけ、
「最後には、頼みの綱の、この身体が壊れてしまう。ご用心、ご用心」
と警告されています。そして、
「私の考えている、生き甲斐というものの、底がぬけねばあかんと思う。
ここが一番むずかしい。底がぬければ、お与えさまの一言に尽きる」、
という言葉で、教えを聞き学ぶということの意味を指摘されます。
お念仏の教えは、この「お与えさま」という世界を
知らされる、ということでないかと思います。
この「お与えさま」という世界を、よく勘違いして
どうしたら「お与えさま」と思えるか。
「どうしたら」という方法を探して、
自分の結論・仏法聴聞の答えにする、ということがあります。
答え、結論としての「お与えさま」は、
自分を保身して、そこに座り込んでいく事ではないでしょうか。
実は「お与えさま」は、「結論」ではなく、
「いのちの事実」そのものであり、
そこから主体的に生きる「出発点」であると教えられました。
私のいのちも、私の境遇も一切が、私の考えより、
先に与えられています。それは「今・ここ」の「事実」の深さ、
広さに気づかせていただくことだと思います。
「当たり前でないいのち」への驚きをいただくことだと思います。
しかし普段の私は、自分の思いで、その事実に対して、
「善い悪い」を決めつけて生きています。
「悪い」と思ったことに出会うと生きる力がなくなります。
仏法聴聞において「わが思い」のまちがいを、
「間に合わぬ」ことを、知らされながら、
「お与えさま」を生きることが願われています。
具体的にはいま、私が出会っているこの現実と
対話していくことだと思います。