お浄土ヤーイ!!

与えられたこの人生をどう生き切るか。これが私たちの最大のテーマではないでしょうか。お寺へ足を運ぶ善男善女の願いは、ひと言でくくれば「生きている今の心の不安を鎮めて、生きていくための拠り所、安心を得たい」ということでしょう。難しい仏典教義を極めようなどと大それたことを目指して寺に足を運んでいるのではないのですね、多分。

もっと卑近に言えば、ずばり率直に言って、助かりようのないこの穢悪の私であることを承知しつつそれでも「私を助けるとおっしゃる阿弥陀如来。本当にござるのか、ござらんのか。そして肝心カナメのお浄土はあるのか、ないのか。とにかく私のこの不安なんとかしてほしい」こんな切ない願いを抱いて、ストンと胸に落ちるように説き明かして欲しい、という一心で足を運んできている人が少なくないのではないでしょうか。

ところが残念ながら寺で聞く話は右から左、寺を出たら何にも残らないの繰り返し。どだい頼りない私です。だからありがたい、ありがたい。なにがありがたいのか実はわからないのです。こんなの、私だけなのかなぁ、と自己嫌悪に陥ります。さても自信ありげな真宗教団のお坊さんたちは「私はもうとっくに了解、開悟し十分に分かっている。お前さんとは違うぜよ」というように話しておいでだが、ホントにわかっておいでなさるのかいなぁ、と疑心暗鬼にもなります。

こちらは聴いても聴いても、ありていに言えばサイの河原です。「落ち着かぬ不安」という捨てどころのないテーマは、どこまで詣っても前に進まない、実らない。お浄土探しは捕まりそうで捕まらない。困った浄土論です。これが切なく、じれったい現実なんです。ここを何とかして欲しい、というのがサイレント・マジョリティー、きょうも黙って法話を聴いて、黙って帰っていく「声無き大衆門信徒」の願いなのだと思います。

こういう心の叫びに、なかなかどこのお寺も応えてくれないというのが、アタマでっかち門徒の正直な感想です。それはお前の聴き方が悪いんだ。そう責められる。悪い聴き方を百年していても助からないぞ、と。その通りでしょう。でも、そんな仏法無学な大衆門信徒を了解、納得させて橋を渡らせることこそ、親鸞教団の依って立つ使命のように思われるのですが。

(もっとも、それでいいんだ、と指摘する皮肉な講師センセイの声も、たまに聞こえてきます。こう言います。皮肉たっぷりに「みんなが簡単に了解、開悟して、わかったわかった、となってごらんなさい、お寺を卒業して来なくなるじゃありませんか。寺はアガッタリですよ、呵呵」と)

そんなキツイ冗談はともかく。まこと、 真宗の教義というのはマジメに聴くほど難しいのですかね。

それにしても、無いものねだりのようにつくづく羨ましいのは、親鸞さんが「念仏は浄土に生まれるタネなのか地獄に落ちる業なのか私は知らぬけれども、念仏して法然上人にだまされて地獄に落ちようとこの私には何の後悔もありません」と言い切られた姿である。この全身全霊を投げ込んだ不退転の熱い信仰がなくては、所詮、彼岸に到達かなわぬ世界なのでしょうか。それが叶えば、煩悩にまみれたまま、いまこの生身を生きたままで、浄土が体感できる世界に到達できるのか。宝の山に入っていけるのか。

それにはなにより、肌身離さず持っている愛着一筋のその生き方のモノサシを捨てなくちゃ、と言われてもカンタンにできる相談ではありません。なにせ生まれてこの方、後生大事と抱えてきた指針なんですから。そんな狭間で揺れながら、疑いながら、悩みながら、歩んでいるお互いの明け暮れなんでしょうか。そう考えればこの『歎異抄』第二条に説かれる親鸞さんの宣言は、マジメではあるけれど、しかしアタマでっかちで知識として聴いている私たち現代人への鉄槌とも聞こえてきます。知に勝って命がけの熱を持とうとしない私たちに鳴らしている警鐘とも受け取れます。

そんな情熱を持つために何をすべきなのか。稿を改めて考えていきたいと思います。

西恩寺にもホームページ誕生。日頃とかく意見交換の少ない門信徒の交流の場になれば意義のある広場になっていくと思われます。特に若い人の声がどんどん登場すれば「新しいお寺」への道が広がっていくのではないでしょうか。そのためにも、このページが難しいことを排して、やさしい普段着のことばで、身の回りのことを飾らずに話し合う、ざっくばらんな言い合いの場になればと思います。とにかく読むのが、見るのがたのしいホームページになっていって欲しいですね。

そんなことを徹住職に話したら、「ならば率先して、身近な課題をぜひ載せてもらいたい」と逆に要請されました。そこで「お浄土ヤーイ!!」という浄土論もじりのタイトルで思いのままに、乱暴承知で記した次第です。平易だけが取り柄の話し方で綴った一文です。ご同行、異論反論どしどし聞かせてもらえれば幸いです。そんな交流がまたホームページの有効な活用方法になりそうにも思えるのですが。

(池田 義男)

 

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