「死と生は、紙の裏表」

(2011年7月 真宗会館 首都圏広報誌『サンガ』掲載 )

西恩寺衆徒   狐野やよい

親類の若者が、自分でいのちを断ってしまった。二十六歳だった。彼はなぜ死んでしまったのか、と残されたものたちは皆、問い、考えた。私も遺体の前で「なんで死んだんよ」と叫んだ。

彼の葬儀の時、蓮如という人の手紙が読まれた。それは真宗の儀式の中で『御文』とよばれている。蓮如という人は、今から五百年以上前の室町時代の僧で、手紙によって当時の人々の苦悩にこたえている。今でもそれを読むのは、そこに普遍的な人間の苦しみを言い当てているからではないか。

こんな内容である。「近ごろ、伝染病がはやって人が亡くなっていっている。だが、それは伝染病のせいで亡くなったのではない。生まれたことによって当然おこりうることだ。だからそんなにおどろくことはないのだ」。それに続けて、「だがこんなときに亡くなれば、やはり伝染病のせいで亡くなったと皆思う。それももっともなことだ」と。それを聞いて、私は自分の悲しみが「あの時、ああしていれば」というようなまったく間に合わない、自己中心的な苦しみではなかったかと思った。

そのあと私の祖母が亡くなった。九十六歳である。朝食を摂り、昼食を持っていったら息をしていなかった、ということだった。たとえ高齢であろうとも孫としては、単純に、純粋に、ずっと元気でいてほしいと思っていたので、私にとっては突然の死であった。

この二人の死は、まったく違うものであるように思う。一人は自死し、一人は老衰で亡くなった。だが生まれてきたいのちがいつ終わるか誰にもわからない。突然である。すべてのひとに平等に必ず「死」としてやってくる。蓮如の手紙は、私たちが死の「原因」と思っていることを死の「縁」であると看破している。死の縁はさまざまである。それが自死かもしれない、事故かもしれない、病気かもしれない、あるいは老衰かもしれない。縁は無数に、いつでもどこでもある。

ところが私たちの日常生活に、「死」はあってはならない穢らわしいもの、見たくないものとなっている。だから、「4」という数字を避け、葬儀に参列すれば清め塩を使い、喪に服すといって年賀状をわざわざ喪中ハガキにする。

だが、何を忌み嫌うのだろう。大事な人の死は穢れているのか。遺体を愛しそうに触ったその手が汚いのか。焼香をしてなぜおしぼりが出されるのか。自分にとって大切な人が棺に入れられ、そして骨になってしまったのに。生まれた者は必ず死ぬ、というその道理をその身でもって教え、若くても年老いてもその人生を全うした人として大事に思い、その人を思いおこす。人の死とはそういうことではないのか。

残された私たちは、いつ死が訪れるかわからない自分の身を知る。おびえることなく道理としての死を感じていく。私にとって、いつ死んでも悔いがない人生というのは難しいと思う。だからこそ、この世に生を受けた意味を明らかにしようという生活姿勢を持って生きていきたい。死と生は一枚の紙の裏表であると教えてもらった。その大きな視点とでもいうべき慧眼。これがなければ人は救われないのではないか。愛する人を失った悲しみ苦しみの中から立ち上がり、自分の生を全うするのが本当の救いではないのだろうか。

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