報恩講で感話をお願いした方に、ご無理をいって原稿を載せさせていただきました。
(住職)
「どうしょうもない心」
人は何処からきて、どこへ還って行くのでしょうか。
何をするために生まれてきたのでしょうか。
仏法を聞いても喜べません。
生きることはしんどいことです。
80歳を前にして、自分のしてきた行いが、これで良かったのだろうかと、振り返ってみますと決して良かったとは、言いきれません。
私が子供の頃から、両親や学校で教えられたことは、善い行いをすれば、良い結果を生み、悪いことをしたら、その報いは必ず来るから、悪い行いをしてはいけない、といった倫理道徳的な事でした。
ですから、親の為・夫の為・子供の為、人様の為に、一生懸命してきました。そうすることによって、幸せになれる、良いことが私にやってくると思っていました。しかし、それは振り返ってみれば、結局、見返りを求めるという心から離れることが出来なかったのです。
善いことをすれば、善いことが来るという、考えが崩れ始めたのが、夫の死でありましたが、それでもまだ、息子がいてくれるからと自分を慰め、生きてきました。ところが、その当てにしていた、大事な息子が48歳で急死しました。今までの思い、考えが一変しました。
海外出張の多かった息子が、休暇をもらって平成20年3月15日、元気で我が家に帰った次の日、急病で倒れ還らぬ人となりました。妻と、2人の子を残して。
私は、崖淵から突き落とされたような衝撃でした。
なぜ? どうして?それしか頭にありませんでした。
すべてが因縁(いんねん)存在だと教えられましたが、中々簡単に引き受けられないものです。
同じ年頃の息子さんを見るにつけ、羨ましい気持ちと、妬ましい気持ちは、拭い切れませんでした。
憔悴している私を気づかって、その頃、三重教務所におられた木名瀬先生と、徹先生がお話合いの会に誘ってくださいました。
仏様にどうしてもお会いしたいと言う、感情が強く働くようになりました。
お話が聞きたくて、聞きたくて誘われると、どこでも出席もさせていただきました。
仏様の光は、誰の上にも平等に届けられているのだと、聞いていても、欲望が強すぎて触れる事ができないのです。
朋友から「息子さんの死は辛いでしょうが、それが息子さんに与えられた、人生だったのだから、それ以上、求めるのは貴女の欲なのですよ」と言われたことがありました。
そう言われても、納得もできないし、やっぱり寂しいし、悲しいし、辛かったです。
そんなことを考え、悶々とした日々が続いていた、ある日の聞法会で、譲 西賢先生から、『大無量寿経』の言葉、
「厚己諍利」(己を厚くして利を争う)
「当時快意」(いつも自分の心を、快くしたい)
「不能忍辱(にんにく)」(耐えることが出来ない)
の言葉を教えられました。
私はハッとして、自分の事を言い当てられているのだと思った瞬間、不覚にも涙が零れました。今の「自分」を気づかせてくださったのです。
翌々考えてみると、私の悲しみは、息子がいなくなったという寂しさだけではなく、頼みたいこと、やって欲しいことが、してもらえなくなり、その分、自分に課せられた仕事が重荷となることのしんどさ、これからの人生、頼る人がいない、当てにできる人がいない、という不安でした。
私の苦しみの内容は、自分の「段取り」が壊わされた苦しさだったのです。
そんな「自分」が教えられたのですが、毎日の生活で、愚痴が出てきます。だんだん身体は動かなくなります。不安です。しんどいです。
田舎に家と田畑がすこしありますが、それを捨てる事が出来ないのです。
先代はこの田地を求めるために、随分ご苦労をされたことも、何度も聞かされております。
またこれがあったお蔭で、子供たちを育てることも出来たのだ、と思うと簡単に放棄出来ないのです。
この捨てられない心はいったい何なのだろうと自問自答してみます。
欲なのか、見栄なのか、執着なのかと・・・・・
ほっておいて、荒しておけば近所迷惑になり、過疎地ですから買い手もありません。ずいぶん荒地も増えてきてはいるのですが、迷惑の掛からない場所であれば良いのですが、人家の側ですと文句が出てきます。
ですから私の葛藤が起こってくるのです。有田憂田・有宅憂宅(田あれば田のある事に憂い、家を持てば持つ事に憂い)のお言葉の通りです。
どうしてもできないことは人様にお願いして、していただいておりますが、全部していただけば、相当な費用も掛かりますから、経済がもちません。
この夏も、掃除・草取りのために、何度も出かけ、やっておりました。あまりのきつさに、ある聞法会で、「皆さんは仏法を聞いて、ありがたい、ありがたいとよく言われますが、私はちっとも喜べないのです」。「仏法を聞いていたら、喜べるのですか。ちっとも喜べません。与えられていることをひたすら、無理して、こなしていくだけです。つらいです。しんどいです。」と言いました。
日々老化していく現実を、どうすればよいのでしょうか。
やっぱり受け取れません。不安が消えません。
いまは、夫や息子か亡くなって、当てにする人もなくなり、一人、孤独に生きて行くのだと思っていたのですが、知らないうちに夫や息子が運んでくれたご縁の中で、なんとか生活をさせていただいております。
以上です。
(村田 たまゑ)
合掌
2012/12/02