宗祖750回会「表白」

「結願日中 法要 表白」

敬って 大恩教主釈迦如来 安養法王弥陀善逝 並びに

十方三世一切の三宝に白して申さく

本日ここに、西恩寺宗祖親鸞聖人750回会大法要、結願日中の勤行を門徒会、同行、同朋のみなさんのお荘厳をいただき、共々にお勤めさせていただきます。

この度の、宗祖親鸞聖人の750回会のご法事に当たり、あらためて、親鸞聖人とは誰であるのか。親鸞聖人は私にとってどういうお方であるのかを問われたことです。それは、なぜ「仏法」なのか。なぜ「念仏」なのかを問われることでした。

思いますに、親鸞聖人とは、法然上人との出会いを通して、本願念仏の「教え」と出遇い、その出遇いが一生を貫き、生涯、法然上人の弟子として「教え」を仰ぎ、生ききられたお方でありました。「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」の仰せは、「自分が何者であったのか」を徹底的に知らされ続けた歩みであったと思います。「念仏弾圧」、「越後流罪」、「法然上人の死」、「三部経千部読誦」、「関東教団の混乱」、「子息善鸞の義絶」と、次々に出逢う現実と、深い悲しみを縁として、いよいよ「仏かねて知ろしめす」自己と出遇い―「常没の凡愚・流転の群生」の身を深く慙愧されていったお方でなかったかと思います。その内実が「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と告白し、「さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と讃嘆された中身だと思います。

最晩年まで、「義なきをもって義とす」、「愚者になりて往生す」という師の言葉、念仏のこころに還っていく姿勢が仰がれます。

自己の「虚偽」・「無明」が、「本願」真実と出会う「場」となり、改めて現実と対峙していく「意欲」となっていくのではないでしょうか。私の生きる現実が、本願開顕の場所となり、あらたに「教え」の言葉を仰ぎながら、他者を発見し、そこに立ち尽くし、悲しみを抱えたまま生きていけるのではないでしょうか。

この度の大法要をご縁に私自身、「仏法相続と真宗門徒の名告りを」と願われ、呼びかけられたことです。親鸞聖人は「弟子一人ももたずそうろう」と言われますが、ご自身が「弟子」という位置を生涯、生きられたということです。この仏弟子という生き方こそ「真宗門徒」ということではないかと思います。親鸞聖人は法然上人との関係の中で「門徒」であると、ご自身のことを語っておられます。門徒―仏弟子は、「教え」の言葉、「道理の世界」を聞く者です。念仏を称え―呼びかけ(いのちの叫び)を聞く者のことです。

それに対し私の現実は、自らの狭い世界の中で、自己中心的に、「思い」に合う世界をひたすら求め、思いに合わない世界を排除し、その「思い」が壊されることを畏れながら、その都度、落ち込んだり、浮かれたりを飽きもせず繰り返しています。根本的に自己の評価を気にしながら主体を失い、時には横柄に、時には迎合しながら、仏法まで利用し、教えで理論武装してく、徹底した自己関心(自己保身、自己執着)を生きています。

日常はこの自分(煩悩具足の凡夫)をいつも忘れ果てて、生活しています。仏法聴聞の場、生活の中で、「呼びかけ」が聞こえる時、この閉鎖的自己知らされてきます。この自分を知らされていくことだけが、他者とつながり、共に生き、世界に開かれている自己を、思い起こし、「本来性」を取りもどしていくのではないでしょうか。

「真宗門徒」の名告りは、お勤めし、手をあわせ、仏法聴聞していくなかで、閉塞した自己を限りなく、「世界」に開かれつつ、縁ある他者と向き合い続けていく歩みをいただいていく「生活」のことだと思います。

この「真宗門徒」の生き方が、「仏法相続」という波を起こしていくことになるのでしょう。

この度の法要を機縁にあらたに、「真宗門徒」となって、念仏申し、有縁の同行、同朋と共に歩み出していきたいと決意することです。

2017年5月5日

諦受山 西恩寺  住職 釋事諦

敬って 白す

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