死んだらどうなるのですか?

20171210_171143「死んだらどうなるのか?」の問いを、誰もが一度は考えたことがあると思います。

この問いに念仏の教えに縁をもっている者として、きちんと応え、発信しなければならないと思っています。しかし、いままで何か言いきれないものがあって、応えてこなかったように思います。

他宗教の中には死んだらどうなるのかを、きちんと言葉にして伝えているものがあるようです。行先不明な我々にとっては、死後の心配、死んだらどうなるのかをはっきりさせたいという要求があります。中には、その死後の不安を利用して、「死んだら地獄に落ちるのだ」と言い、「地獄を逃れたければ、善行を積みなさい」と、勧めると聞きます。その善行は、献金(布施)と、信者の勧誘だと言われます。人間が犯してきた罪を指摘し、その罪の報いとして地獄は逃れられないと言い脅かすのでしょうか。ご注意ください。

親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」(『歎異抄』)と言い、先人は、「南無阿弥陀仏は、地獄に安心して居れる世界だ」と言われます。それは具体的には、苦悩する力を与えられるということでしょう。

さて、「死んだらどうなるのか?」の問いに、「法身ともうす仏となるなり」(『御消息集』p589)という聖人の言葉をお伝えしたいと思います。「法身」とは、法の身ということです。死んだら「法の身」となるということです。実は、この「法の身」ということは、死後だけではなく、生まれる前も、現在ただ今も「法の身」を生きているということです。三世を貫いてある「法身」を生きているのです。死んで初めて「法身」に成るのでなはく、今、現在も「法によって成り立っている身」を生きているのです。「法」の表現としての「身」なのです。その法とは、因縁果の道理、縁起の法であります。この私の身は、単独で、それ自身だけで成り立っているのでなく、因縁で成り立っているということです。あらゆるものから切り離された「私」は、意識の中ではあっても、実際はありません。無量無数の因縁によって私が成り立っているのです。それを「無我」という言葉でも表現されます。

そもそも「死んだらどうなるか?」の問いは、今までの経験、現在の物差しの延長上で、捉えたものです。初めに私を立てて、その私が生きて、そして死んでいくと思っています。その私の思い込みを破る形で、現在ただ今の私が「法身」を生きているという目醒めをいただく時、死後の心配から解放されつつ、「いま、ここの私」に向き合い、完全燃焼していける生き方を賜るのです。

(【テレホン法話】2018年12月16日~12月31日)

 

 

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