「テレホン法話」2014

三重教区(東本願寺)のテレホン法話

「念仏者のしるし」

お念仏のいただき方が問われています。法然上人を中心とした吉水の集まりが、国家によって解体、解散させられました。1207年「承元の法難」といわれる事件です。

親鸞聖人35歳の時です。その引き金となったのが「興福寺奏状」です。この「興福寺奏状」は1205年、奈良興福寺の僧侶たちによって提出された、「念仏停止」の訴えです。

なぜ、念仏を生きる者が、批判され、国家によって解散させられ、死罪、流罪という現実を突きつけられたのでしょうか。それは、念仏に生きることが、少なからず「社会」に影響を及ぼしていることをあらわしているのでしょう。

それに対しいま、私たちの念仏は、どうでしょうか。社会とか、国家からは、見向きもされず、自己満足の手段に念仏を終わらせていないでしょうか。いま、様々な問題を抱える時代だからこそ、あえて「念仏」の受け止め方が、厳しく問われているのではないでしょうか。

さて、その「興福寺奏状」には、念仏の教えに集う人々の過ちを九つ挙げていますが、その批判の内容を考えますと、念仏の教えに生きるということが、どういうことなのか、念仏の教えによって、生み出される人間が、逆に読み取れるように思います。

その第九番目には、「国土を乱る失」と言われ、国土、国を乱すという過失が、念仏を生きる人のあり方として、批判されています。念仏者が、「国を乱す」ということは、その国のシステムや、価値観に呑み込まれず、自由になっていたとことを表しているのではないでしょうか。当然、その国を運営する権力者からすれば、困った存在になります。また第四番目には、「万善を妨げる失」といって、その社会を中心とした善悪、優劣、上下などの価値を「無化」していたことを語っています。

その国が目指している方向性を妨げ、権威、権力からも自由であった集団だからこそ、為政者は恐怖を感じて、念仏者を訴え、排除したのではないでしょうか。

念仏にはそういうはたらきがあるということです。

改めて、「現代」という時代の中で、「念仏に生きる」ということが、問われています

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