「お手紙」の返事 ①

 

「明るい人は すばらしい、悩んでいる人は 尊い」 (先人)

(前略)
仏法を「分かりたい・知りたい」という願いで、我々は聞いています。必死で聴聞しています。しかし、これはひとえに名利心です。-「分かりたい」心、「悟りたい」心の根っこは、自己拡大です。-たとえ「分かった」-「こう、いただけた、気づかせてもらった」こと、全体が「我法」です。「仏法」ではありません。そんなの、間に合いません、壊れます。いつでも、「こんなはずではなかった」、「神も仏もあるもんか」と叫ぶ「私」です。

仏法をこちらに引き寄せて、仏法の真実を「わが真実」として、立てようとしているのです。褒めてもらいたいのです。「さすが、仏法を聞いている人は違うね」と。「たすかった自分」、「悟った自分」に成りたいのです。結果・結論がほしいのです。「善知識」と言われている人にも、認めてもらって、安心したい、評価してほしいのです。そのために、いつでも言葉の「綱渡り」をします。辻褄合わせに必死です。言葉尻に振り回されています。それは、自分が真実(正義)になろうという発想からです。「虚偽」(迷い)を知らせる「教え」に「真実」があるのであって、「私」が「真実」になるのではありません。求める方向、「聞き方」が反対なのです。(仏智疑惑)

我々の仏法の聞き方は、聞いている「私」をなによりも信じています。聞いた「私」を当てにしています。阿弥陀さんを-仏法を、信じているわけではありません。聞いた「私」の「物差し」を何よりも頼りにし、基準にしています。

その全体が自己関心、自己正当化です。そこから、自己保身・自己主張・自己拡大という生き方になっています。仏法を聞く、聞かないに関係なく「自己中心的」なのです。「独善的」「虚偽」なのです。その「私」(日ごろのこころ)の延長上で仏法を聞いただけで、仏法を使ってまでも、自己主張を図ろうとしているだけです。仏法をも利用しているのです。

実は、この「自己関心」「自己正当化」が、「地獄・餓鬼・畜生」という世界(三悪道)を生み出す根っこにあります。自己中心的に、善と悪を立て、「善」は受け入れるが、「悪」は絶対に拒絶する心。これが「私」です。だから当然、「自損損他の咎(とが)、のがれがたし」です。孤独、不安、不満、空しさは必然です。自分への関心のみで、「他者不在」なのですから。

それは、時に自分を責め、また他人を裁き、ある時は媚び諂い、人を見て、押柄な態度にも出る。劣等感に苛まれ、優越感に浸る。浮いたり沈んだり。高慢、卑下慢のどちらかです。時々、傲慢になるのではありません。元々が真理に対して傲慢なのです。横柄なのです。

だから、「絶対にたすからない、救われない。救われようがない」のです。(事実を事実として、受け止められない、自分の都合でしか考えられないから)

仏法聴聞とは、絶対に「たすからない身」を、教え知らされていくのです。「そらごと、たわごと、まことあることなき」この「身」、この「世」を、はっきりさせられることです。
「流転の歴史」・「流転の群生」-「罪」を知らされていくことです。(機の深信)

念仏の救いは「たすからない自己」への確信です。

その「絶対救われない」という頷きが、「驚きと傷み」を内包し、同時に「すでにして悲願有ます」という感動(意欲)と、その愛の深さ(「念仏申しなさい」という教えとして用意されている仏の大慈悲心)を知らされます。   (後略)

 

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