「自由」と掛けて、「玄関」と解く。その心は、お勝手ではない。
自由は、自分勝手にすることではない、ということだ。『同朋新聞』に、若者向けに、こんな話が掲載された。
【高校時代、「自由になりたい!」って思っていた。で、大学に入ったら確かに自由になった。好きな服が着られるし、好きな時間に帰れるし、でも、最近思う。例えばコンビニの前に来たら、何もほしいものがなくても買い物せずにいられない僕・・・。そんな僕って本当に自由なのかって。・・・・・・・高校時代は校則や、親に縛られて自由でなかった。大学に入ってやっと自由になれたと思ったら、今度は何かに依存しないと不安でしょうがない・・・】と。
こんな言葉も聞いた。
【戦後、日本社会に生まれた様々な社会運動も国家の規制から「個人の自由」を求め、解放を求めたのであって、自由になった個人が、実は「空白」であることなど考えてもいなっかた】。
また、かつてのホークソングの歌詞に、
【悲しいだろう みんな同じさ 同じ夜を迎えている 風の中を一人歩けば 枯葉が肩でささやくよ、 どうしてだろうこのむなしさは。誰かに会えばしずまるかい。 こうして空を見上げていると生きていることさえむなしいよ。 これが自由ということかしら 自由になると寂しいかい やっと一人になれたからって 涙が出たんじゃ困るのさ やっぱり僕は、人にもまれて みんなのなかで生きるのさ】と。
人間の考えの延長線上に、自由を求めて生きると「空白」になり、「不安」になり、「寂しく」なるという。
その求めていた自由が、「勝手、わがまま」というときに、空虚さ、不安、寂しさが現れてくるのではないか。だから、それに耐えきれず、新たな依存を求め、様々な従属を求める。「〇〇依存症」や、いわゆる「宗教」といわれるところに入信(依存)する一つの理由かもしれない。
どうだろうか?
では、真の自由とはなんだろう?