「身体が念仏しとる」

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「身体が念仏しとる!」と語った先人がおられる。
「念仏する」という教えは、一切の「存在の道理」を表現し、「万物一体の真理」を語り、「相依相待」の事実を知らせている。
『無我なる存在』である。

一切の存在は、
その法則に順がって、
運ばれている。

〈諸法因縁生 諸法無我〉

気づかなくても、気づいても、
そういう法則の中の存在である。

問題は、その法則に運ばれているにもかかわらず、自我(自力の心)を立てて、自己主張、自己拡大、自己執着して、離さないという、人間の在り方である。
実はそこに苦悩の原因がある、と教えている。

しかし、この生身をもった人間は、この自我を無くすことはできない。命がおわるまで引きずって生きていかねばならない。悲しいことである。痛ましいことである。
だからこそ、その法則、そのものが、「本来」へ戻ることを呼びけているのである。

こんな喩えをお聞きした。「輪ゴム」は、輪(法則)になっている。その輪をねじ曲げたり、引っ張ったり、ぐるぐる巻きにしたりする。(自己主張、自己保身など)
しかし、輪になっているゴムであるから、当然、元に戻る力が働く。その元に戻る↩️動き、力が本願力とも言われる。
念仏は、存在の道理を表す、と同時に、存在からの呼び声である。
共なるいのち、万物一体の真理、そのものからの祈りである。
「一如」の祈りである。

念仏は、人間の行為や、
期待を叶える手段ではない。

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