〈癒し〉で救われない?

20220202_221558『自画像』と
「現実の私」が
一致しているときは、
それなりに
頑張れている。
頑張ってますよ。

しかし、
「こんなはずではなかった」
「なんでこんなことが?」
「信じられない」
「もう、最悪だ!」

など。

相手に、怒り、
うらぎられたり、
思いもよらないことに
遭遇したり、
自分に失望したり
意気消沈したり。

時に、
どうしたらいいのか!と
悩まされ
苦しむことがある。

そんな時、
いやし
なぐさめは
有難い。

そこに救いを求めてしまう。

しかし
それだけでは
根本的解決には
ならないのではと思う?

なぐさめ
癒し
だけでは
問題の先送りになるだけではないか。
問題の本質からは
目を背けている。
何が問われているのか?
見ようとしない。

出会った現実から
新しい意味をいただく。

私の立場が
「転換」される道が
念仏の教えというのだ。

念仏の教えを聞いたら、その現実が、変わるわけではない。
無くなるわけでもない。

新しく気づき
出遇いをいただくのです。

ほんとに、願っている
自分の深い本心に気づくチャンスとなるのです。

そのことを通して
想像力をはたらかせ、
創造力をいただくのです。

苦労できる人間に育てられていくのでしょう。

念仏の教えは、
状況の変化をもたらすのでなく、
立場の転換を開いてくるのです。
それは、生きることの意味が変わるからです。

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