いのり

世のいのりにこころいれて・・・世のなか安穏(あんのん)なれ

仏法(ぶっぽう)ひろまれと おぼしめすべし

親鸞『書簡』

 

 祈りは、宗教の精神であり原理であって、

祈りを否定して宗教はないといわれる。

だが、そこに問われるのは、その祈りが手段か目的かであろう。

 欲望や願望が満たされるために祈るなら、

それはエゴを立場とする手段のそれでしかない(虚偽)。

何かを得ようとか、何かから免れようとかでなく、

むしろそのような祈りに生きることの(むな)しさに

気づかせる光に始発する祈り。

ただひたすらに祈らずにおれない祈り。

それが目的としての祈り(真実)にちがいない。

 わが子の死に、生きかえらぬとわかればわかるほど

泣かずにおれない悲しみ。

真実の祈りは、つねに悲しみをもととして

起こされているものといえよう。

手段の祈りは神々への祈りなのに対し、

目的の祈りは人びと(他者)への祈りなのだ。

 2005年12月18日

(前住職)

                     

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