中日新聞 〈人生のページ〉 ㉔

(ほっ)(しん)ともうす(ぶつ)となるなり

                       親鸞書簡

 

仏教は霊魂不説(霊魂を説かず)の教えである。

では、人間は死んだらしまいなのか、それを断見(だんけん)という。

ならば、死んでも霊魂が存続するのか、それを常見(じょうけん)という。

仏教はそのいずれの見解をも、生きる立場としない知見の獲得を説く。

なぜか。もし常見に立場した生きかたならば、

霊に呪縛(じゅばく)された生活となり、断見に立場した生きかたならば、

虚無の生活とならざるをえないからだ。

呪縛と虚無からの解放こそ、

人間が人間らしく主体的に生きるすがたではないか。

親鸞のこのことばは、人間が主体的に

この生を尽くしきる人生の方向を示すものだ。

その意味で死者の生きざま・死にざまは、

生者にとって教えであり、鏡だ。

生者の姿勢を問いかえす「お盆」のこころにかえろう。

2002年7月28日

 

 

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