「善人だから救われない」

 

生きる意味を問う者にとって

   生きる意味を真剣に問おうとする者にとって決定的に大切な意味をもつのは、真実か虚偽かの問題だ。それは私たちの日常が万事「善・悪」の次元であることからして、その善悪の分別を問い返す教えとの出遇いによって成り立つ判断問題と言える。

その意味でいま広く知られている『歎異抄』第三条の善人・悪人の問題を取りあげたい。近年この間題については当時の歴史的社会的な視点からのアプローチが際立つが、さまざまな視点からの解釈があって当然に思う。
だが、いろいろな解釈がなされることは自由であっても、ただ一つこの第三条の文面自体が告げている意味は何か。その言わんとするところは何なのか。その点 をはずれては、元も子もないこととなろう。したがって、いま問題提起の意味から、それについて若干のべさせていただきたい。

 

  • 往生浄土の大道に立つか否か

 よく読まれているこの一条だが確認のため、まず本文を掲げることとしよう。

  一、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。

この本文に接して善人・悪人の意味解釈に集中するのは当然としても、その解釈の視点をこの第三条の外からでなく、第三条の中からが筋だろう。ということは、何よりも本文中に「往生」の語が五回もくり返されていることだ。いうまでもなく 「往生」は“阿弥陀仏の本願にもとづく浄土に生まれる”ことであり、それについて善人・悪人が語られることだ。

つまり往生浄土の大道に立つか否かの問題で善人・悪人の提出なのだ。この一点をはずせば第三条が告げる善人・悪人の意味は把握できないこととなろう。ならば、ここで善人・悪人の問題は「自覚」の有無の問題に極まることが直感される。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」は往生道(自覚道)に立った言葉であり、「しかるを世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」は世間道(無自覚路)に立った言葉だ。

 

善人・悪人とは誰のことか

では、そこにいう「善人」とはいかなる人間か。ズバリ「自力作善のひと」と言う。親鸞はそれをまた、

自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。 (『一念多念文意』)

と語っている。つまり廃悪修善の問題は、自分の考えでいかようにも善をなすことができるし、また自分は自分なりに心がけて善を行なっていると思っている人だ。だから「ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず」、本願に相応しない人だと言う。

これに対する「悪人」とは、「他力をたのみたてまつる悪人」であって、それは「自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつ」る人。つまり自力作善の成し遂げえない自分であることを信知した人、いかほど誠実に善をなしえたと思っても、超えることのできない自己矛盾をひきずる自分に気づかされ、仏力を依りどころとして生きる人だ。その意味でそれは、自らの偽善の善人性を自覚した人として、「悪人」の自覚者なのだ。なぜなら「偽」が「悪」だからだ。

このように言えば、きっとこんな意見が出されよう。「現代の殺伐とした世相からいえば、偽善であれ何であれ、他人に見えない個人の内面のことなど言っていないで、善を行なうことが大切なのではないか」。ごもっともだ。だが、それこそ「世のひとつねにいわく」の言辞でないか。現に対人関係で、「あいつは、口ばっかで、誠実味のないやつだ」と言う。内面の自己矛盾を問うことなく、ただ外面のみを取り繕う偽善人の生きかたが、いかに人間不信、さらに疑心暗鬼を招 いていることか。

時事問題の川柳に象徴的に思う。

ここかしこお詫びが流行る口ばかり

 

  善人・悪人は二種の人間でない

   常識があるということは、みな修善の生活を心がけて生きているということだ。仮りに「君は、善人か悪人か」と問われて、誰が「悪人だ」と答えるか。もし 「悪人だ」と言えば、嘘っぱちに決まっている。自らを「是」としていればこそ、人前にも出れる。社会生活も送れる。だが、その善人意識が人の世を、いかに 汚染している源泉であることかに、気づこうとしない自分がここにいるのだ。その自分にこの一点を問い返させる光として、この第三条があった!それが私の驚きだった。

このように「善人・悪人」を読み解とき、善人・悪人という二種の人間が存在するのでなく、存在するのは偽善人のみだとわかる。なぜなら、自らの偽善性への無自覚なありかたが偽善の善人であり、その偽善の「偽」への自覚こそが悪人だからだ。
ならば、この悪人の自覚はどこまでも「懺悔」を意味する事柄であり、それは「偽」から脱却できない自己、否、偽そのものの自己への「痛み」でないか。「痛み」は自虐意識とは異質だ。どこまでも「教え」の光に照射された自己との出遇いの内実だ。

 

一つの説話から問われる

こんな説話がある。ある所に二軒並んで対照的な家があった。それは、いま便宜的にAとBと呼ぶが、A家は日ごろ喧嘩に絶え間がないという家、隣りのB家はそれとは逆に、みなが仲よく平穏に過ごしている家。そこでA家の主人はかねがね思っていた。どうして隣りは平穏に暮らせるのか、何か秘訣があるにちがいないと。とある日、B家の主人とバッタリ道で出会った。この時とばかりそれをたずねるとB家の主人は、「あなたの家は善人ばかりやから喧嘩が絶えない。しかしわが家は悪人ばかりやから、平穏に過ぎている」、と言った。A家の主人はその意味が解しかね、わからぬままに一ケ月ほど過ぎたある日、B家に大変なことが起こった。それは大切な労働力として飼っていた馬が、夜中に逃げだし行方不明。喜んだのはA家の主人。こんどこそは、いかにB家でも一波乱起こるにちがいないと興味津々。A家の様子を覗きこみ、聞き耳をたてた。すると、B家ではまず主人が、「大事な馬が逃げたのは、わたしの責任だ、勘弁してくれ。いま一度戸締りを点検すべきだったのに・・・」と。すると奥さんが、「いや、わたしが悪かったのです。いま一度の見回りはわたしの責任、それを怠ったばっかりに・・・どうぞゆるしてください」。すると、すかさず息子夫婦が、「父さん、母さんは昼間の仕事の疲れで忘れたのも無理からぬこと、若いわたしらがうっかりそのまま寝てしまったので・・・どうか責任はわたしらにあること、ゆるしてください」と。家族みんなが悪いのは自分だと謝るのを聞いて、A家の主人は成る程と。もしこれが自分の家だったら、全員が自分を善人にして他を責めるにちがいない。はじめてB家の主人の言ったことの意味がわかったという説話。

 

仏心にふれられない死角

私はこの説話から、強く自問させられる。私たちの善悪の観念からはB家を褒め、感心する、何と立派な心がけかと。だが、もし自分がその感心派だとすれば、この第三条はまったく読めていない証拠でないか。仏の教えがわかっていない。

では、ここで大切な問いは何か。それは自分の家がA・Bいずれの家に該当するのかの一点でないか。とは言っても、自分はA・Bどちらの家にも該当しないような気がする。なぜか、わが家はA家のように自己主張で明け暮れてもいないし、かと言ってB家のようにとは言いづらい気もするから。だが、自分がこの第三条に聞かねばならぬことは、B家こそわが家のことであったの一点でないか。

なぜか、実はここに私たちにとって仏の教えの真意にふれられない死角の問題がある。それは私たちの感覚が仏の教えを、つねに理想論化して聞いていることだ。だが、仏の教えはつねに「汝自身の現実を見よ」と促している。その意味で仏智の感覚は、B家を”理想の家”視して感心して眺めていることでなく、かえって私たちの現実相を見せてくれていることに気づくことでないのか。
それはただ一つ、なぜわが家は平穏に過ぎているのかの問い返しだ。もしA家のように自分を是として自己主張をすれば、たちまち争いのほかはない。だから言いたいことも我慢し、相手に気配りして、極力笑顔を忘れずに努めている結果が、平穏な生活!という正体でなかったのか。

ここに気づくと、こんどは逆に言いたいことを言ってガタガタしているA家が、何と気楽な家庭かと見直さずにいられなくなる。それならあなたの家も真似をしたらと言われれば、それはできない。なぜか、やはり善人で居たい、よい父、よい母と言われたいから。ならば、辛抱しているのは損ではない。それなりの評価という配当をえたいのだからと気づかされる。

 

善人は暗い、悪人は明るい

   こうしてたずねてくると、私たちの善なる行為は報われなければ愚痴になる。それが証拠に何よりも自分自身が底晴れしない。先師はこれを、「善人は暗い、悪人は明るい」と喝破した。”善いことをしながら顔が暗い”。自己への無自覚を言いあてられた。

最後に念を押したいことは、取りあげてきた自己に対する自覚の問題が、決して特別な事柄でなく、生きる意味を問う者にとっての不可欠な真理問題だということだ。なぜなら、何が人間を眠らせる阿片、虚偽なのか、同時に何が人間を真に主体的に生きさせる真実なのか。真・偽の自覚=仏智に立たなければ、現前のやり直しのきかない、誰とも代りあえない、ただ一回かぎりの厳粛な「いのちの事実」と向きあい、「自」らの「分」を尽くしていく創造的生きかたは始まらないからだ。

『大法輪』⑩ 第78巻(平成23年)第10号に掲載

 

 

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