生死無常のことわり

 

今年3月に、弟が仕事場で急死しました。

朝、いつものように元気にでかけたのですが・・・。

まさかの出来事で気が動転する中、仏事を迎え、お通夜には、200人を超えるお参りがありました。突然のことで、家族も知人もただ驚き、何が起こっているのか、朦朧としたまま一通りの仏事を済ませました。その後、七日参りのたびに、法話を聞きながら、残された、連れ合いや、子どもたちと、住職が「いのち」や「人生」について話合いをしていました。

「いのち」とか、「人生」について考える時間ができたことは、大変よかったのではないかと思っています。

 

改めて、私にとって弟の死は、「おまえも死ぬぞ」、「本当に死んでいけるのか」と、今の生き方が厳しく問われた気がします。目先に追われ、いつまでも「いのち」があるかのように思い、生活をしています。まだまだ、死ねない、未練の残る生き方しかしていない自分が、あぶり出されました。

 

親鸞聖人のお手紙に、「生死無常のことわり」(聖典p603)、という言葉があります。人生のはかなさ、“生まれた者は必ず死す”という道理のことです。このお言葉は、いのちには「道理」があるということが、教えられています。

ご法話でお聞きしたことは「いのちの全相」という言葉でした。いのちは、四つの相、すがたを持っているということでした。一つは「生相」生まれるというすがた、二つ目は、「老相」老いるというすがた、三つ目は、「病相」病気になるというすがた。四つ目は、「死相」死んでいくというすがたです。

これがいのちの全体のすがたであるということでした。実はそれは本来のすがたであり、いのちの事実であります。しかし私たちはこの事実を真っ直ぐに受けとめられない、深い無明を生きています。南無阿弥陀仏は、「事実に還れ」という呼びかけです。その呼びかけが聞こえる時、この事実に深く頷くとき、悲しみに向き合い、苦しみを背負う力となるのではないでしょうか。

生活は、私の思いに立つか、道理に立つかの選びです。今回の弟の死を通して考えさせられました。

(総代 桑原 克)

〈2013/06/11~06/20 三重教区テレホン法話原稿〉

05940-23-6191 電話いただけると24時間いつでも聞けます。

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