「仏法を聞く」とは?

 
「真宗入門塾」に参加しています

今回も、まず全員で歎異抄(第2条)を拝読して、現代語訳を確認し、そのあと、テキストを読んで、話し合いをしています。

今回、問題になったのは、冒頭の「往生極楽の道を問い聞かんがため」というところから、「どんな人も浄土を求めている」と提起され、話し合いの中で、「浄土はあるのか」、「どういうところか」、「在ると思わなければいけない」などの議論がありました。ある方から、「浄土とは本当の居場所ではないか」と言われまして、「そうか」とは思いましたが、後で考えると実感として湧いてきません。

聞法の場に居ましても、自分の関心のあることは聞いても、それ以外は何も残っていません。そういう話をすると、「他人事としてしか捕らえていないから」とか、「問い、課題が見つからないからではないか」と、言われます。時には「悩みがないからではないか」とも言われます。

改めて思う事は、「仏法を学ぶ」場に出かけていますが、「自分は本当に仏法を求めているのか?」、と感じます。現状に流されて、特に問題がなければ、「これで良し」としています。それでも、心が動かされたり、「ドキッ」としたりします。しかし時間と共に消えていきます。通り過ぎていくだけです。

「仏法を聞く」ということは、どういうことなのでしょう。すっきりしないことばかりです。答えがすぐに出るものでもないでしょうし、正解があるのかもわかりません。今後も折にふれ、考え、探っていこうと思います。

 (世話役 和田清一)

 

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