インスタ投稿③

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いま、ここの私が、すべてです。
未来の自分も、過去の自分も「いま、ここの自分」に摂まっています。
それは、歴史、社会、人間関係の全体を含んだ、公なる自己です。(万物一体の真理)

世界全体が私の中身です。そして一瞬一瞬をいただきながら、いま、ここに、与えられている存在です。「無我なる自己」という言葉で表現しておきます。

 

 それに対して、私の日常意識は、その世界とつながっている自己であるにもかかわらず、自分だけが、単独で、それ自身だけで成り立っているかの如く思い、生きています。その立てた自分に執着して生きています。そこから、自分の思い通りの自分なら愛して受け入れますが、自分の期待通りでない自分が現れると途端に、冷酷になって、その現実の自分を拒否します。
「いま、ここの私を愛せよ!」は、呼びかけです。この呼び掛けが聞こえる時、「あー、また無我なる自己を忘れて、〈自分中心の意識〉に執着して、生きてるなぁ」と気づかされるということが、起こります。しかし、また、すぐに自分の《思い込み》に戻ります。

この、呼び掛けが、聞こえる時、「いま、ここの自己」に全力投球のできる時です。都合が良い、都合が悪いを横に置いて、事実を生きることが始められます。
問題だらけの現実と、向き合い、時には闘いながら、もがきながら、生きていくエネルギーみたいなものが、与えられてくるのではないかと。

-その時〈自分中心の意識〉-日常意識で生きていることが、「存在への暴力性」をもっていることに気づかねばなりません。

〈虚偽なる自分〉を徹底的に知らされるということにおいて

「我に真実なし」と深く信知させられる「回心」が初めにあります。

「回心」から始まります。

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