法語カレンダー『今日のことば』

 

念仏の「教え」を聞くということは、どういうことなのだろうか。それは「生きる意欲」を賜ること。その内実は「気づき→目醒め=出遇い」ということ。具体的には「いま・ここ・共に」という「事実」を限りなく生きる者に育てられていくことだ。それは「本来性」(浄土)に呼び返されるということではないだろうか。

私には「妻が一人いる」。今から十数年も前、友人からスキーに誘われたことがある。私はスキーをしたことも、見たこともないが、妻は雪国育ちである。「行きたい」というので仕方なく、膝まである長靴を購入し、子守のためにスキー場に行った。昼食も終り、車の中で、当時一歳の長男を寝かしつけていた。すると、「奥さんが大変や」と呼びに来た。救護室へ行くと、頭にガーゼを巻いていた。転んだところにミニスキーを履いた人が、わき腹に追突してきたという。頭は金具で切ったらしい。しかし妻はいつもと変わらない様子。それでも友人たちは妻を心配し、予定より二時間も早く、帰路に着いた。私は友人たちに申し訳ない気持ちでいた。途中から、車中で苦痛な表情を浮かべていた妻に、私は「大袈裟にして!」とイライラしていた。無事に家に着いたが、そこから、妻が歩かない。肩につかまってようやく動き出した。しかし私は、まだ友人たちへの後ろめたさと、申し訳なさを思いながら、大袈裟に振舞う妻に「たいしたことないのに」と、怒りが収まらない。なんとか部屋にもどり、妻はトイレに入った。しばらくして、尿が紅いと言う。疑い深い私もさすがに、少し心配になって、病院に行った。検査の結果、「最悪、破裂状態かもしれない、このまま出血が続けば、内臓を摘出しなければならない、そうなると命にかかわるかも。少し様子を見よう」という説明だった。さすがの私も医師の言葉に驚き、心配になった。病室に行くと点滴や、管につながれた妻が寝ている。ベッドの脇に掛かっている尿の色はうす紅い。

話の途中であるが、その後、我々は三人の子どもを授かっている。今も隣の部屋から妻の大きな声が聞こえている。反抗期に入った長男、生真面目な長女、マイペースな次男、甘えん坊次女、そんな子どもたち中心の生活を送り、月参り、葬儀、寺の行事、中学校の部活のコーチと、少々疲れてはいるが、元気に動き回っている。(ご心配なく)

話を戻すとその後、妻を病院へ残し一歳の長男を連れて帰り、食事、風呂を済ませ、歯磨きをして、トイレをさせている時、改めて子どもと眼が合った。

「万が一、妻にもしものことがあれば、どうなるのだろう」。

「残されたこの子は・・・」、「わたしは・・・・」

「一人身ならば、まだ可能性があるのだが・・・。子づれでも新しい妻は来てくれるのだろうか」と。

そんな心が湧き起こってきた。「あれほど愛し合った」かは、定かではないが。自分の心に驚いた。

この「自分」を語るために前置きが長くなったが、「命にかかわる」と聞いても、自分のことしか心配しない、(再婚できるのかと考える)自己関心、自己保身を知らされた出来事だった。全く「他者」(いのち)が、「世界」が見えていない。「正体、見たり」である。自己関心のみ。一事が万事だ。

念仏の「教え」を聞くということは、「世界」(事実)からの問いかけ、呼びかけを聞くこと(気づき)。その学びから、「教え」に呼び醒まされて、己の迷いに「驚き、悲しみ」の感覚を賜る(目醒め)。そのことが、同時に「他者」を発見し、「世界」と向き合う生き方(出遇い)を開く。「いま・ここ・共に」の生活を回復する時である。改めて、生活の「始め」に「教え」があり、「浄土」がなければならない。

 

2012年 法語カレンダー『今日のことば』 (東本願寺出版部)の原稿に加筆しました。

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