ラジオ 【東本願寺の時間】②

 

お話の内容は、「生きる意欲」-「苦悩する力」というテーマを想いながら、お話をしてまいります。

前回は、あるご婦人が、病に出会うことにより、失望感に呑み込まれ、「役に立たない、迷惑を掛ける」、「生きる意味、張り合い」がないと苦悩しておられる、というお話と、子どもたちも、大人と同じように生きる意味を、「生きる実感をもてないで、自己肯定感が低くなっている」という、新聞の記事も合わせてご紹介させていただきました。

さて、意欲の喪失、失望感に苛まれ、生きる意味を見出せない時の形、パターンを前回、私の思い描く「自画像」と、「現実の自分」とのギャップ、分裂によって起こると申しました。自分は「こうあるはずだ、こうあるべきだ」という自画像に対して、現実の自分が、食い違うわけです。その時、私の考えは、自画像こそが私であって、現実の自分の方が、あり得ないこととして、できればなきものにして、「思い」を通そうとします。

先にご紹介したご婦人も、また我々も、病という現実を抱える時、落ち込んでいきます。その時、健康で変わらない自分が当たり前、それが「自画像」になっているのです。それに反して、現実は病という身を生きることになったのです。

我々は、病によって苦しむということでありますが、よくよく考えますと実は、病そのものを受けとめられないで、苦しんでいるということがあるのです。病気になったことが、苦しいというよりも、病気を受けとめられないで苦しんでいるということです。事実を事実として受け止められないというところに、意欲喪失の問題があるのです。

念仏の教えから言えば、「いのちの道理」に暗いということが、意欲喪失の根っこにあるということです。いのちの道理とは、「生老病死」全体が、「いのち」の全部であるということです。「生のみが我らにあらず、死もまたわれらなり」(『絶対他力の大道』清沢満之先生)という言葉がありますが、まさに「生」という内容が、必然として「老」(おい)、病(やまい)、そして死を元々孕んでいるということです。それが道理なのです。いのちは、「生」まれるという相をとり、「老」いるという相、「病」という相、そして「死」という相をもっているのです。これがいのちの全体の相です。しかし私は、「生」のみに固執して、その「生」をいかに、思惑通りに生きるかに掛かり果てているのです。いのちの全部、いのちの道理を見る眼がない、というとこるに苦しみの根っこがあると教えられています。実際、病をかかえ、老いと向き合いながら、生きている方はたくさんおられます。

お寺の役員をかつてされた方が、入院をされました。癌が転移して、ほとんど動けなくなっていきます。お見舞いに行ったとき、まずお叱りを受けました。「寺での勉強会の回数を減らしたそうだな、何をしているのか」と。「今こそ、仏法を学ぶ時だ、しっかり、寺をたのむぞ、仏法を聞かなあかんぞ」と言われました。それを横で、聞いていた、お連れ合いが、「父ちゃん、何を偉そうに。毎日、愚痴ばっかり言って、情けない、情けないと言っているくせに、何が仏法よ、仏法なんて聞いても意味ないね」と、突っ込みを入れました。それを聞いてご主人、「そうやな、歩けないというのは、張り合いないな・・・と」。「だけど、順調やぞ」と言われました。「順調」とは、いま病を受け、ベッドに横たわり治療を受けている、この現実のことを言われています。気持ち、感情は、やはりせつなく、苦しむというのです。しかし、この身の事実、刻々に老い、病を受け、死んでいくことは、「法則」通りに進んでいるというのです。驚くことではないのだ、順調に起こるべくして、起こっているということでした。

念仏の教え、いのちの道理を深く学ばれた方は、「私」のこころ、気分から解放されながら、現実と向き合う生き方が与えられるということです。「私」の自己中心的な心は変わりませんが、その心に順わないという生き方を開くのです。

念仏の教えはどんな問題でも、「身の事実に還れ」ということを呼びかけています。

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