ある日のお参り (1)

 

1998年3月末に京都での14年間の生活に終わりをつげ、桑名(西恩寺)に帰ってきました。もう14年が過ぎました。それから、毎月30件程の「月命日」参りをしています。日程が重なったりする時は、坊守(連れ合い)が、お参りに寄せていただいています。門徒のみなさま、お世話様になっています。先月は坊守が寄せていただき、今月は私がお参りに行くということはよくあることです。

帰って間もない頃、お参りにお邪魔したお家の奥様が、「とおるさん(私の名)、子育ては当然、夫婦が協力してやるものよ、少しくらい手伝っているからと言って、威張ることじゃないのよ。当たり前のことでしょ。なにを恩着せがましく言っているの」と、お叱りを受けました。続いて、「嫁という立場は、敵地に一人乗り込んでくるのよ、あなたが、奥さんの味方をしなければ、だれが守ってあげられるのよ、ちゃんと協力しなさい」とご指導をいただきました。そのご忠告を聞く私は、恥ずかしさで、顔があげられませんでした。

実はこの2,3日前に、私は連れ合いに、豪語したのでした。「俺ほど子育てに協力的な夫はいない。君は、幸せものだ。良い人と結婚できてよかったね」と、恩着せがましく、さも重大そうに言ったのでした。それは、当たり前であることは十分理解したうえでも、過大に言わずにおれないのです(それは、何なのでしょうかね)。そこには、役割として、「女が子育て」という深い思い込みと、決め付けもあるからでしょうかね。とにかく、恥ずかしさのなかで、ご教示、ご指導を受けました。

家に戻って速攻、私は連れ合いに文句を言いました。「なんでおれの悪口を言いふらしているのか、おれは、今日お叱りを受けた。なんで家の中での出来事を他所でいうのか、まして俺の悪口を。カッコ悪い!」・・・・・・。

そうは言ったものの、あとから冷静に考えると、「私の悪口を言いふらす」というより、事実をそのままに報告し、私の「本性」を、ありのままに語っただけでした。しかし私は、それを「悪口」としか受け取れず、日常的な自分(本性)を晒されたことが、恥ずかしく思えたのでした。

この出来事から考えさせられたことは、事実(凡夫)をありのままに受け取ることができないということ。良き自分であれば鼻高々になり、悪しき自分と思えば、排除してしまいます。自分はいつも良き自分を演じ、その自分を自分だと思い込んでいるということを教えられます(優しく、人の身になって考え、あたかも心の広い人であるかのような)。

また、私(自分)が「私」を見るよりも、はるかに妻が見た「私の姿」のほうが正確に言い当てているということ。私は「事実」をありのままに見ていない。第三者からの視点の方が、「事実の私」をよく観察し、見ているということを思います。自分が一番、自分を正確に理解していない、見えていない、分かっていない、ということを知らされたことでした。

その後、連れ合いには、「他所で俺の話をするな!」とは、言えなくなりました。(どうぞご自由に!)すでに、いつも言いまくっているようですし、私にも直接ご批判が飛んできます(笑)

蓮如上人のお側に居られた法敬坊順誓の言葉に「世間では、面と向き合わないで、陰で悪口をいう、と言って腹を立てる。」しかし順誓は、「私の前で言いにくいなら、せめて、陰でも言ってください。それがいつか伝わってきて、自分を見直すことができますから」と、言われたそうです。ちょっと、そんな言葉を思い起こしました。

それにしても、本当のことを言われると腹が立ちます。その通り(事実)なのに・・・・。

「本当のこと」は聞きたくない「耳」なんですね。

 

 

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